1969年5月14日に結ばれた佐川確約

この確約は、「教養部恒久サークル棟」問題のすべての起点となっている。当時の佐川修(漢文学・中国哲学)建築委員長は、次のように述べていた。

「サークル部室を収容する本建築を即刻建築すべきであるという意見について趣旨として何ら異論はないが、文部省が定めているサークル部室基準面積は僅少であるので……あらゆる機会を通じて、他大学とともに強力に文部省に働きかけつつある現状である。なお、これの実現が早急に見られない場合は、学内措置として恒久的建築を実現する決意があることを表明する」(傍線は著者による)

これは、学生側が、「大学当局は『恒久サークル棟』の実現を確約した」と何度も言及することになる「佐川確約」である。

ここには、大学当局は、サークル部室が不足している現状を認識しており、もし文部省が充分な予算措置をしないならば、下線部のように「学内措置として恒久的建築を実現する決意がある」と表明されている。これ以後は、これを軸にして「教養部恒久サークル棟」についての交渉が学生側と何度も行われていく。

1972年2月9日、「サークル協議会」は、「サークル活動専門委員会」との団交で、「川内・青葉山総合移転計画」とサークル棟との関係についてその内容を明らかにすることを求めた。

この計画の中では、現在使用しているいくつかのサークル棟が壊され、しかも、代替措置がはっきりしなかったからである。しかし、大学当局は、約1500名もの大量留年を出すことになる学費値上げ阻止闘争の高揚を理由にして、春休み中にかけてサークル棟を一方的にロックアウトし、会見要求を拒否した。

1973年1月12日、「サークル協議会」と「サークル活動専門委員会」との団交(通称「サ活専団交」)が行われた。このとき、民青系が「サークル協議会運営委員」(「サークル協議会」の執行部。5名定員)のヘゲモニーを握っていた。

彼らは、サークル員全体の意見を全く無視して、一方的に大学当局の「移転案」を承認する協定を結んでしまった。しかも、これは密約であり、その内容は、その後4か月間も、サークル員を含めて一般学生には明らかにされなかった。

  

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