島に行くとすぐに久史の両親の元へ行く。暗い離れにいたおじいちゃんとおばあちゃん。そこは物置小屋のような造りだった。
おじいちゃんは威厳を保とうと明るく振る舞い、おばあちゃんはいつも頭が痛くてはちまきを頭に巻いていた。じいちゃんの家に行く途中に一軒だけお店があった。何でも置いている店で、お菓子も売っていた。
お菓子といっても人工着色料たっぷりの駄菓子やおまんじゅうだが、紫衣と翔はそこでシベリアという、カステラに羊羮を挟んだものを買うのが大好きだった。
久史は両親と何かを話すわけでもなかったが、お店で甘いものをお土産に買い、毎日足を運んでいた。久史が封筒を渡すと二人がその封筒を両の手で持ち、静かに拝んでいた。
紫衣は子供ながらにその封筒の中身が 何であるかわかった。それはおじいちゃんとおばあちゃんが亡くなるまで続いた。
紫衣は雲に向かって話しかけた。
「知っている? 夜に波止に行き、仰向けに寝転がると、まるで地球の反対側から引っ張られるような感覚になること。背中が地面とくっついて、このまま海の中に沈むのではないかと思うの」
紫衣はいつも夜の海から大切なことを教えられ 、沢山のことを学んだ。
あの赤い屋根の家で。
久史が教員になり三年経った時だった。家族も出来たし、勤めていた高校の近くに家を買おうとしたが、頭金がなくて、多分当時のお金で一万円ほどの金額を兄に 借りに島へ帰ったそうだ。
しかしそれすらも兄は貸してくれず、久史は段々のみかん畑を泣きながら一人歩いたのだ。誰にも頼らずに生きた久史の背中はいつも子供たち に「生きる」ということを教えてくれた。
紫衣が中学生の時に、同級生が塾に行っているので塾に行きたいと久史に言ったことがある。
「なぜ行きたいんだ?」
久史は聞いた。
「みんなが行ってるから」と紫衣は答えた。
「じゃあ、その『みんな』が二学期に成績があがっていたら塾に行ってもいい」と久史は紫衣に伝えた。
二学期の試験が終わったが、残念なことに「みんな」の成績は特にあがっていなかった。そのことを紫衣が伝えると久史はお見通しとばかりにこう言った。
「そんなものだ。これからは『みんなが』というのはやめよう」
そんな父であった。
久史の両親が他界したときに久史はかねてから作っていたステンドグラスを本業にしてステンドグラス作家になった。
理系は芸術的センスがあるとよく言われるが、久史の作るステンドグラスのデザインは既成概念にとらわれない美しいものだった。
ビーカーや天秤(てんびん)のあった久史の部屋にはいつの間にか所狭しとガラスが並べられ、ハンダゴテ、カッパーテープやガラスカッター、ランプのスタンドなどで溢れていた。
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