第一章 全てを赦(ゆる)す色
銀杏(いちょう)が黄色くなる季節
紫衣にとって、その島の移民や出稼ぎの話は少し悲しい物語であった。
久史が中学生になり、もうすぐ戦争に動員されるという時に終戦になった。
久史は今の筑波大学の前身の東京文理科大学に進み、山口県の小さな島から単身で東京に来た。
さぞかし豊かな家なのだろうと思われるかもしれない。確かに豊かだったのだが、十才以上年の離れた兄が財産を独り占めしていた。両親も母屋から離れに追いやられ、もちろん兄は久史にも何も援助などしなかったのであった。
文字通りの苦学生だった久史は研究者になるべく、大学で海草の研究をしていた。そのときに実験助手のアルバイトに来たのが紫衣の母、美紀である。
美紀は日本橋の大きな花屋の娘だったが、空襲で家は燃えてなくなり、親が人形町に店をやっと構えたところだった。
美紀は母親にお弁当を作ってもらい、アルバイトに行くのだが、久史はいつも昼は食べないことにしています、と言っていた。食べるお金がなかったのである。
紫衣は父が母に宛てた恋文を見たことがあるが、ドイツ語も交え、とても情熱的なものであった。今のように娯楽もあまりない、生きるのに大変な世の中では、言葉の力は魔法となり、人々を充足させていたのだ。
美紀は戦時中に苦労したにもかかわらず、天真爛漫(てんしんらんまん)な明るい性格の女性だった。なんでも、祖父から「お前は器量が良くないからいつも笑っていなさい」と言われて育ったそうだ。
久史は研究者になるのはやめて、高校の生物の先生になっていた。美紀と暮らすためには研究では食べていけず、教職という道を選んだのだ。
当時の高校の先生は休みが沢山あったので、ひと夏実家のある島に帰り、両親の面倒をみたいという気持ちもあったのだ。久史と美紀には男の子が産まれ、翔(しょう)と名付けられた。そして、その七年後に紫衣が産まれた。
毎夏に行く久史の実家へは、寝台車「あさかぜ」で岩国まで行き、そこから電車に乗り大畠(おおばたけ)駅で降りて、フェリーで島に渡るという二日がかりの行程だった。
紫衣の寝台車のチケットは買ってもらえず、紫衣は母、美紀と一緒に寝た。しかし美紀がベッドを独り占めして電車の三段ベッドから落ち、やむなく夜中に列車内を彷(さまよ)っていたこともある。
車掌さんが、どうしたの?と聞いてくれたが、親が寝返りをうって私がベッドから落ちたとも言えないので黙っていると、車内に貼ってあった日本地図を見ながら色々教えてくれたのを紫衣は今でも覚えている。
ガタンゴトンという音を聞きながら、揺れながら地図を見た。車掌さんが一人前に扱ってくれていることが紫衣にはとても心地よく、地図はよくわからなかったけど、彼の言葉に耳を傾けていた。紫衣は内気な子供だった。
当時の人形町は下町で、道路に蝋石(ろうせき)で絵を描いたり、皆でケンケンして遊べた時代だ。花街でもあったので、いい香りをさせた芸者さんたちがお榊(さかき)を祖父母の生花店に買いに来るのだが 「あら、紫衣ちゃん」と言われても挨拶も出来ない子供だった。