プロローグ

鎌倉の小町通りと若宮大路の間の路地に詩麻(しま)はいた。

「おじさん、鯛焼き二匹ください」

「はいよ!」とあんこたっぷりの鯛焼きを経木(きょうぎ)にくるんで渡してくれる。おじさん、一枚写真撮らせて、とデジタルカメラを構える。

いいよ、と鯛焼きを手に極上の笑顔をこちらに向けてくれた。

ここの鯛焼きは天然ものだ。鯛焼きでも一丁焼きの型で手焼きするのは天然、六匹分とか八匹分が一枚の鉄板に並んだ鯛焼きの型に流し入れて焼くのは養殖という。

天然の鯛焼きを買って帰ると母の紫衣(しい)は「人形町の柳屋さんの鯛焼きを思い出すわ」と喜ぶのだ。詩麻は地元鎌倉のフードライターをしながらYouTubeで海外向けの鎌倉案内の動画を配信している。この辺りのお店では詩麻は有名人だ。

今日は由比ヶ浜にあるチーズが美味しいレストラン、スブリデオレストラーレに母と行こう、そんなことを考えながら鯛焼きが冷めないように帰路を急いでいた。

海岸橋を渡ると青い海が見える。

詩麻は子供時代を思い出した。

「お母さん、お母さん!」

ランドセルをカタカタと言わせながら、詩麻は走って帰ってきた。

「お帰りなさい、どうしたの?」

「お母さん、浜に行こう」

ただいまも言わずに紫衣の手を引きながら海に向かって走る詩麻。笑いながら紫衣もついていく。

「お母さん、海と空を見て」

そこに広がるのはどこまでも青い海と空。しばらく二人で青を見つめる。

「今日ね、学校で習ったの。青の色を沢山見ると幸せホルモンのセロトニンっていうのが体に増えるんだって。お母さん、今幸せになった?」

その言葉に思わず笑みがこぼれる。

「それで海に連れてきたの? 幸せになった! でもあなたがいるだけで幸せよ」

紫衣は詩麻を抱き締めた。

——青は幸せホルモンを増やすのね。私の『青』は見つかるのかな、お父さん——

紫衣は銀杏(いちょう)の黄色い時季が来ると、心の中でいつも父親を呼んでいた。黄金色に輝く葉が空気に舞い、美しく懐かしい光景を作り出す季節。時には雨の滴で、銀杏の葉が照らされるけれど、その美しさは失われることはない。

静かに地に落ち、しっとりと湿ったアスファルトや土を、悲しくも温かみのある表情にしてくれる。地面を金色に埋め尽くす葉。晴れた日にそこを歩くとさくさくと軽やかな音がする。

それは紫衣にとっては悲しい響きだった。