第一章 司馬遼太郎の育った庭

一  上宮中学校

上宮中学校

司馬さんの中学校時代にふれる前に、司馬さんが入学した上宮中学校について説明したいと思います。

上宮中学校は、浄土宗が明治の新時代にふさわしい僧侶の育成を目的として全国に設立した僧侶養成機関の一つで、明治二十三年に浄土宗学京都支校から分離した大阪大教会支校(大阪支校)がそのルーツになります。

その後、大阪支校は何度かの浄土宗学制変更を経て、明治四十五年、僧侶養成機関から財団法人上宮中学校に生まれ変わり、普通教育を行う私立中学校として、広く門戸を開放することになりました。

以後、上宮中学校は大阪の私立中学校で二番目に古い名門の中学校として、太平洋戦争敗戦直後までの三十五年間、その歴史を刻むことになります。司馬さんが入学したのは昭和十一年四月でした。

この年の二月に二・二六事件があり、翌年の昭和十二年の七月七日に日中戦争が始まり、卒業して九か月の昭和十六年十二月太平洋戦争が始まりました。まさしく、司馬さんの中学時代は戦争の時代だったのです。

この上宮中学校において、司馬さんの人生を決定する二人の先生に司馬さんは出会うことになります。この二人の先生との出会いと御蔵跡図書館がなければ、司馬さんの人生はまったく違ったものになっていたことは間違いがないと思います。

司馬さんは、卒業までの五年間、自宅から中学校までの二キロを徒歩で通学しました。中学校の校則で二キロ以内の者は市電での通学は禁止されていたからです。学校の帰りにはほぼ毎日、市立御蔵跡図書館に寄って本を読んでいました。

下校時に、中学校の正門を出て西側を見ると、大阪外国語学校が上本町筋越しに見えます。司馬さんがモンゴル語を学んだ大阪外国語学校です。

上本町筋を渡ってまっすぐに西に歩くと谷町筋に出ます。谷町筋をさらに渡って、生國魂神社の南側にある源聖寺坂を下ってしばらく歩くと小さな公園があります。そこに市立御蔵跡図書館がありました。

司馬さんはこの御蔵跡図書館に中学、大学時代を通じて通い続けました。特に中学校時代はほぼ毎日、下校時に寄って夜の九時頃まで本を読んでいたといいます。帰宅するのは九時半を過ぎていたことでしょう。

御蔵跡図書館は司馬さんの小説家の背骨を作ったといってもよい図書館でした。全蔵書読破も速読術も独学独思も、すべてこの図書館で生まれたのです。

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