【前回の記事を読む】妻、娘、そして両親の死。当時芦名先生は悲劇の只中にいた。しかしだからこそ「凡夫」の授業は司馬遼太郎に感銘を与えたのだ

第一章 司馬遼太郎の育った庭

二  校友会雑誌『上宮』

校友会雑誌『上宮』

現在、上宮中学校の校友会雑誌で、存在が確認されているのは、三十六冊中わずか七冊しかありません。その七冊で完全にページが揃っているのは四冊だけです。

その四冊しかない完本の内、二冊に中学一年の時に司馬さんが書いた作文(第30 号)と、司馬さんの書いた「卒業片言」が掲載されていました。特に第36号は校友会雑誌廃刊直前の号でした。

校友会雑誌『上宮』の廃刊が一年早ければ、第36号は存在せず、司馬さんの「卒業片言」も存在しなかったのです。

私はこの中一の時の作文が掲載された第30号と「卒業片言」が掲載された第36号の二冊を奇跡の号と呼んでいます。

どちらも一冊しか存在が確認されていない古書界でいうところの孤本ということと、司馬さんの中学の入り口と出口にあたる時の作品を掲載している二冊だからです。

最初に、昭和十一年十二月発行された第30号について説明したいと思います。この号には、司馬さんが中学一年の秋に書いた作文「物干臺に立つて」が掲載されていました。

この作文は確認されている司馬さんの現存する最古の作文になります。中学一年の作文の授業のために書いた作文ではありますが、中学一年生が書いたとは思えないくらいの素晴らしいものです。この作文については、次の章で詳しく解説したいと思います。
 
次の第36号には、司馬さんの「卒業片言」が掲載されていました。「卒業片言」とは、上宮中学校の伝統行事で、卒業に際して五年生全員が学校への想いを一行ほどの短文で書いたものです。