お金をいただかない理由は?

講師の皆さん、スタッフの皆さん、総勢60名を超える方がボランティアで協力してくださっています。無償の奉仕! 尊い皆さんです。しかし何もお礼ができず謝礼も払えません。

申し訳なく思いお詫びしたところ「お金を貰ってしまったら、何の意味もなくなる。何もいただかないから意味があるのですよ!」との言葉。

こういう人たちに囲まれて子どもたちはなんて幸せなのだろうか。少しでも何かを吸収して明るく育ってほしい。今は小さな輪だけれど、子どもを大切に思うこの心が大きな輪になり広がってほしいと願うばかりでした。

10年経過した今でも、皆さんの意気揚々とした姿は眩(まぶ)しいばかりです。「地域で育てる子どもたち」を実践しながら、自らも輝く未来塾なのです。

くしろ子ども未来塾設立に至る経緯

私がなぜこのような塾を開設したのか? それは、自分の育った環境や我が子を育てながら学んできたことが原点となっています。

私が生まれた昭和24年の釧路は、戦後4年が経とうとしていましたが、まだまだ貧しい街で人々が寄り添いあって生きていたような気がします。

町には人情があり、貧しい中に笑いもありました。子どもたちが太陽の光をたくさん浴びながら暗くなるまで外で遊んでいた光景は今でも目に残っています。

童謡ではないですが、夕焼けで皆の顔も真っ赤! 夜になると空から星がこぼれ落ちてきそうなほど美しい夜空。日中は屋根の上に上って日向ぼっこ。なんて幸せな子ども時代だったのでしょうか。でもまだまだ貧しかったのです。

私の父は京都で修業した畳職人で、結婚を機に、長女だった母の実家がある釧路に移り住み、看板を上げたのでした。神社、仏閣の畳工事を一手に引き受ける京都の畳店で修業した父は筋が通っていて厳しい人でした。

通いの職人さんの他に、自宅には住み込みの職人さんが2、3人いました。子どもは総勢8人で、私と私の兄弟5人に加え、母方の2人の従兄弟と一緒に暮らしていました。

従兄弟は、父親を船の遭難で、母親を病気で早くして亡くしていたため、私の母が引き取って育てていたのです。

そんな大所帯での生活で、家業を中心に目まぐるしい生活を送っていました。朝から晩まで忙しい母に、「習い事がしたい」などと言い出すことはできませんでした。

【前回の記事を読む】未来塾に魅力的な先生が集まるのはなぜ?使命感が心を動かし、貴重な労力と時間を費やしてくれた。

 

【イチオシ記事】老人ホーム、突然の倒産…取り残された老人たちの反応は…

【注目記事】見てはいけない写真だった。今まで見たことのない母の姿がパソコンの「ゴミ箱」の中に