壱の章 臣従
宇都宮仕置
天正十八年八月一日佐竹には「常陸国並びに下野国内の知行弐拾壱万六千七百五拾八貫文と常陸の旗頭を命ずる」という朱印状が与えられ秀吉政権下の大名として従来からの所領が安堵された。
そのほか、常陸では義宣に随行した下妻の多賀谷氏、友部の宍戸氏、真壁の真壁氏は秀吉への忠誠が認められ本領は安堵されたが水戸の江戸氏、府中の大掾氏は佐竹の家臣的地位に留まったため領地安堵の朱印状は発行されなかった。
八月九日会津に入った秀吉は興徳寺に本陣を置き小田原参陣命令に背き不参だった陸奥国に割拠する長沼城主新国盛秀、名生城主大崎義隆、登米城主葛西晴信、石川城主石川昭光、白河城主白河義親らの所領を没収した。
そのほか義宣の兄弟たちで二男の義広[盛重]は伊達政宗に奪い取られた芦名の所領の返還を秀吉に陳情していたが再度与えられることはなく会津復帰は叶わなかった。しかし土岐氏から没収した常陸江戸崎四万五千石を与えられ佐竹の与力大名となった。
なお会津には伊勢松坂十二万石の蒲生氏郷が四十二万石で転封となった。
三男の忠次郎は小田原参陣の帰路、鎌倉にて二十三歳の若さで病死した岩城常隆に子がなかったため貞隆を名乗り岩城氏の嗣(あとつぎ)となることが認められ家督を相続することになった。また、四男彦太郎も於江(おごう)の実家である多賀谷重経の娘婿になることが認められ多賀谷家を継いで宣家と名乗った。
義宣は秀吉より命令された道普請と兵糧米の調達を滞りなく済ませた安堵感と弟たちの処遇も決まりホッとしたのも束の間であった。