壱の章 臣従

家族紹介

次に弟妹を紹介しよう。

二男は五歳年下の義広[幼名喝食丸(かつじきまる)]だが幼少時に激動の人生を送った男だ。

天正三年父義重は会津の名族芦名氏の勢力下にあった白河義親の白河城を落とし生後間もない喝食丸を養嗣とすることで和議が成立し奴が五歳になった時、義広と名乗って白河城に入った。

その後芦名家で継ぎ目争いが起こり佐竹、伊達両派が争った結果、白河城主義広が会津黒川城に入り芦名盛隆の娘[小杉山御台]を妻とし十三歳で名を盛重と改め芦名家を継いだ。

ここまでは良かったのだが天正十七年六月、突如として伊達政宗が芦名領の猪苗代城を攻撃してきたため盛重[義広]は磐梯山の麓、摺上原で迎え撃ったが芦名家の重臣たちの裏切りで敗北。

奴は妻と僅かな供を連れて常陸の佐竹に逃れてきて今に至っている。年齢は十五歳[のちに名を主計頭義勝と名乗り秋田では角館城代となる]。

次は長女だ。十一歳年下で今十歳である。

水戸城の江戸彦五郎宣通に嫁している。名を瑞ゑ(みずえ)という[後に京の公家、高倉永慶(ながよし)卿に嫁ぎ二男が後嗣の絶えた佐竹北家を継ぐ]。

三男は十三歳年下の忠次郎[幼名能化(のうけ)丸]年齢八歳[後の岩城貞隆。岩城家改易後は岩城家再興を計る]。

四男、彦太郎は七歳[後の多賀谷宣家。多賀谷家改易後は長兄に従い秋田へ赴き、のち亀田藩の藩主となる]。[ ]内は筆者註

その他の登場人物

以下の人たちは天正十八年時点では太田城にはいないが今後、義宣の人生に大きく関わってくる人たちであるので筆者から紹介しよう。

五男となる末弟には異母弟[義重側室の子]申若丸[のち義直、義継]がいるが慶長十七年生まれであるから現時点では存在すらしていない。

二階堂盛義の正室であったが今は未亡人となった叔母[義宣母の姉]の阿南(おなみ)[大乗院]。夫の死後、須賀川城の当主となっていたが天正十七年十月甥の伊達政宗に攻められ落城。

その後三年ほど、兄の岩城親隆を頼って岩城家に寄食していたが二人の孫を伴って妹である大御台[宝寿院]を頼り、文禄二年頃に常陸へ身を寄せた。年齢五十歳。「姉様」とか「叔母上様」と呼ばれる。

阿南の連れてきた孫のうち一人は芦名盛隆の娘だが自分の養女にした十二歳になる真瑠(まる)姫[昌寿院]。もう一人の孫は盛隆が側女に産ませた子で左京進という。以上である。