宇都宮仕置

北条征伐が終わると秀吉はすぐさま小田原に参陣せず臣従を誓わなかった奥州在の大名や豪族たちの始末にかかった。宇都宮仕置といわれる。

その命令が出た翌日の七日には、不参を理由に下野の小山秀綱が所領を没収されたのを皮切りに十三日には義宣の正室で那須御台の兄、那須資晴が北条方と通じていたとして烏山八万石を没収され旧領佐良土に蟄居させられた。

那須氏と佐竹の確執は古く佐竹十六代義舜(よしきよ)の頃に遡るがその後、離合集散を繰り返してきた。

元亀三年になり那須資胤[那須御台の父]と義重の和睦が成立しその条件の一つが資胤の娘を義宣の妻に迎えることであった。義宣は当時僅か三歳に過ぎず、一方の珠姫は六歳であった。

姫が実際に輿入れしたのは天正十三年秋で十九歳、義宣十六歳の時であった。実に十三年もの間、和議の条件の一つである婚姻が反故にならなかったのはこの当時としては稀有なことであった。

しかし、この秀吉の那須氏に対する改易処分が徐々に義宣の珠子に対する憂鬱を増長させ悩みの種となっていく。秀吉から義宣と宇都宮国綱には七月十一日付の朱印状で「宇都宮から会津まで横三間之街道の普請及び兵糧米の調達」を命じられた。

道普請は人海戦術で何とかなったが遠征軍二十万人分の兵糧米は七月といえば端境期に当たる。米の備蓄など大量にあるわけはなく領民だけに限らず家臣にまで割り当てを命じ何とか秀吉の要求に答えた。

その甲斐あってか「奥州内佐竹知行」としてかねてから政宗との争乱の地であった滑津、赤館、南郷の所有を認められた。二万七千石相当であった。

七月二十六日、秀吉は宇都宮に到着すると伊達政宗と最上義光を至急呼び出し奥州の決まりやしきたりについて質し両人に対しては妻子を人質として上洛させるよう命じた。南部信直や佐竹義宣にも同じ命令がくだされた。

これは諸大名に対する統制の強化策であった。

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