壱の章 臣従
水戸城攻撃
能化丸の岩城家入りについても恙(つつが)なく九月二十八日に出立の日を迎えた。八歳の能化丸改め貞隆ほか付け人らの一行は太田城から磐城大舘城に向かった。
補佐役は根本里行、岡本好雪斎と岩城家からは佐藤大隅守が同行した。義宣は会津黒川城の苦い経験から岩城家家臣と摩擦を起こさず協調するよう指示を出した。さらに貞隆後見付き家老としてしばらくの間、北義憲に政務を見させることにし、近くの植田城には梶原美濃守政景を城将として配置した。
一行は十月五日に大舘城に入城した。
義重は予定より遅れて十一月の上旬に太田に戻ってきた。
翌日、義宣は北の丸に義重を訪ねた。
「父上、お帰り早々でお疲れの所、恐れ入りますが上様から許可を戴きましたので水戸、府中、南方……ほかの成敗を致したいと思います」
一連の中に額田[小野崎]照通も入れようと思ったが義重は額田のことになると姻戚関係を持ち出して躊躇する所があるので取り敢えず外しておいて、その時になれば勢いで踏み潰してしまえばいいと思っていた。
この好機を逃すわけにはいかない義宣は京から戻ったばかりの義重に三成からの書付を示した。
三成からの書付を読んだ義重は怪訝な顔付きで尋ねた。
「この書状には日付もなく治部殿の花押もない。偽書ではないのか?」
「このような危険な書状は発覚した時にどちらにも取れるようにしておくという三成殿の深慮かと、読んだあとに破棄すればよろしいのではないでしょうか。
……つきましては早急に軍議を開きたいのでご臨席をお願い致します。内容が内容だけに漏れては元も子もなくなります。中務[東義久]、真崎兵庫[重宗]、和田安房[昭為]、小貫佐渡[頼安]の家老のみにしたいと思います」