壱の章 臣従

宇都宮仕置

ここまで来ると義宣の考えは、堂々巡りをするのだ。

義宣は珠子の処遇を北又七郎義憲に相談した。

「何だ、そんなことか。どこかに預けて、ほとぼりが冷めるのを待てば良いのじゃ」と又七郎の答えは明快だった。

「しかし、関白殿下にどうしたと聞かれたらどうする?」

「出産を控えているので、その後に離縁すると言えばいいだろう」

「そんな簡単に行くか?」

「関白様は忙しくて御屋形のことなぞ、そのうち忘れるさ。もし、ばれそうになったらその時はその時だ。離縁して、お子共々寺に預けてあるとでも言えば良かろう」

この北義憲は佐竹一門で通称を又七郎といい義宣とは同い年で幼い頃よく遊んだ竹馬の友であり腹心の部下でもある。

そんな義宣の苦悩も知らず七月二十七日に大御台と於江の二人が人質として、父義重は本領安堵のお礼に、弟の盛重は芦名の名を残し江戸崎に所領を与えられたことへのお礼言上のため太田城を出立し上洛の途に就いた。

一行は九月十四日に三成が用意した京二条[現中京区古城町西福寺辺りか?]の借家である私邸に入った。

秀吉は奥州の処分を僅か三日で終え、その後の奥州の管理監督を会津に移った蒲生氏郷と米沢の伊達政宗に任せて八月十二日帰路に就いた。

秀吉の京都着は九月一日であったが途中の駿府で九州肥後に所領を持つ小西弥九郎行長に唐入の準備をするよう指示を出した。

奥州の征服を終えた秀吉は朝鮮や唐国の情勢にこれといった情報を持っていたわけではなく日本全土を掌握したあと、秀吉が海外に目を向けるのは当然のことだったのだ。

秀吉にとって頭の痛い問題は戦のなくなった日本にいる何十万人という兵と何百万の農民たちの処遇である。それでなくとも「惣無事令」という私闘禁止令の発布によって戦[仕事]のなくなった兵たちがいつ反乱を起こすか分からず、大名たちにはもう恩賞として配分する領地も残っていない。

大仏建立という名目で刀や槍を供出させた刀狩や「天正の石直し」と呼ばれる検地で税の負担が大きくなり不平不満を持った農民たちが各地で一揆でも起こしたら豊臣政権の基盤を揺るがす事態に陥りかねない。

秀吉が海外に目を向け『時の後陽成天皇を北京にお遷(うつ)り戴いて皇帝とし、明の関白には秀次を、高麗には羽柴秀勝か宇喜多秀家を配し、余は東亜の覇者となるのだ』、

そんな夢を漠然と見ていた頃、ひとまず落着したと思われた奥州の混乱は三日で済むような簡単なものではなく、北の果てでは改易となった大崎義隆と葛西晴信の旧臣たちが新領主になった木村吉清の悪政に反抗し、検地で増えた年貢に不満を持った百姓たちが一揆を繰り返した。

さらに南部家の石川信直と九戸政実の間では相続を巡る争いと、奥州の各地では紛争の火種が燻(くすぶ)り続けていた。