水戸城攻撃
奥州の仕置きが一段落して常陸に帰った義宣は精力的であった。常州の旗頭を命じられた義宣だが常陸一国を治めてゆく居城にしては太田の舞鶴城は手狭であり地理的にも内陸に位置し広がりようがない。
地政学的にも那珂川の水運が使える海に近い水戸城が最適である。
義宣が取り急ぎやらねばならないことは常陸の統一であった。常陸にはまだ佐竹に服従していない豪族たちがあちらこちらに点在している。
水戸の江戸重通、府中の大掾清幹をはじめ鹿島、行方郡には大掾一族が「南方三十三館」と呼ばれる集団を形成し結束して独立を保ってきている。
これらを義宣は秀吉に、旧来から佐竹に従属している豪族であるが、時に反抗して手を焼いていることを報告していた。三成を通じてこれらの成敗の許可を秀吉から得た。
「常陸国之住人、鎌田、玉造、下河辺、鹿島、行方、手賀島之面々宜任先例可令 成敗之條被仰出候畢仍下知如件」
石田治部少輔三成
佐竹右京大夫
この書付と時を同じくして上洛中の義重から東義久へ書状が届いた。
『常州の旗頭として義宣本人が今年中に上洛して関白様に本領安堵の礼を言う方がいいだろうと思う。その上洛時には義宣と義久へ叙任の用意があると三成殿から聞いたので、その時には各方面へそれなりの土産物の準備をしておくように』とある。
それ以外にも『盛重が上洛中であるので江戸崎城の受け取りは誰かに代行させるように』とか『岩城家の嗣となった能化丸[貞隆]の補佐役や道中の護衛などの人選は慎重に』とか細々とした指示が並べられている。
『十月下旬頃には戻れるだろう』、そして『京の繁栄をお目にかけたく候。実に驚目に候』ともあった。
義重の息子たちに対する愛情に満ちた手紙であると共に京の華麗さや文化の違いは想像を絶するものだったのだろう。
義重が心配していた江戸崎城の受け取りは滞りなく終了し、能化丸の岩城家入りについても恙(つつが)なく九月二十八日に出立の日を迎えた。八歳の能化丸改め貞隆ほか付け人らの一行は太田城から磐城大舘城に向かった。
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