序の章 まえがき

時は織田信長が天下泰平の世の中をつくるという『天下布武』を掲げ十五代将軍足利義昭を奉じて京に上り浅井・朝倉連合軍を姉川の合戦で撃破した元亀元年。まさに下剋上の戦国真っ只中に佐竹次郎義宣(よしのぶ)は佐竹宗家第十九代の当主佐竹義重を父に、伊達晴宗の娘を母として常陸国太田郷、今の茨城県常陸太田市で生を受けた。今を遡ること四百五十年前のことである。

信長は鎌倉以来の戦に明け暮れる武士の世を終わらせ天皇を頂点にした律令制の復古による世の中を築こうとした。しかし、その理想の達成を急ぐ余り自ら、天皇の父親[太上天皇]になって実現しようと画策したため、朝廷だけでなく足利将軍を奉ずる者や異教徒たちの思惑も絡み合う信長包囲網によって信長の理想の天下づくりは志半ばで頓挫した。

そのあとを継いだ羽柴秀吉は信長が目指した平和な世を実現するために日本全国を統一し、理想の国家を目指した。秀吉は信長の失敗から自らは関白となって朝廷を自分の思い通りに操ろうとした。

このような時代を背景に佐竹義宣は青年期を迎え、激動の世の中を渡ることになる。佐竹二十代目の当主となると小田原の陣で豊臣秀吉に臣下の礼をとり豊臣政権下に入る。

『慶長三年大名帳』では全国でも上位七番目の大身となったが秀吉死後の天下分け目の関ヶ原合戦では秀吉の重臣である石田三成に恩義を感じ優柔不断な態度をとったため徳川家康の不興を買い常陸五十四万石を追われ石高の明示もないまま僻遠(へきえん)の地、羽州秋田への国替えを命じられた。

転封後は徳川幕府の一外様大名として中央政権の政策に翻弄されつつも家名断絶や減封もなく次世代へ繋ぎ続け明治維新を迎えた。

この物語は概ね史実といわれるものを基にしていますが、それが歴史の事実とは限りません。最近になって当時の遺構が地中から発見されたり、旧家の蔵から信憑性の高い古文書などが見つかり通説、定説といわれていたものの解明がどんどん進んで覆ったりその史実が存在したのかすらあやふやになっています。

新たに権力を握った者は以前の支配者の業績はもちろん、その人をも含めて全否定するからです。歴史に上書きをしてファクトを隠してしまうのです。勝者の歴史です。新たな権力者やそれに服従した者は「忖度史観」「礼賛史観」など独自の史観を作り出し「虚偽史観」をでっち上げていきます。フェイクもファクトになり得るのです。

色々な科学的検証技術が確立された現代ですらファクトを探し出すのは至難の業なのですから昔ながらの通、定説というのはどこまでが本当なのでしょうか。

これは佐竹義宣の前半生を描いた歴史小説ですが、この中ではストーリーの成り行き上、オーバーに表現したり自分なりの解釈で現在の定説とは食い違ったりする点もあります。また逸話や仮説などの類もいくつか取り上げてみました。