壱の章 臣従
小田原陣
「お初にお目にかかります。佐竹次郎義宣にございます。関白殿下のご尊顔を拝し恐悦至極に存じ上げ奉ります。此度は、父義重の名代として小田原陣中のお見舞いに馳せ参じました」
天正十八年五月二十七日、相模国湯本の早雲寺本陣で常陸国の若き領袖、佐竹義宣が関白太政大臣豊臣秀吉に初めて臣下の礼をとった日である。
この時、秀吉五十四歳、義宣は弱冠の二十一歳であった。
「おうおう。義宣殿か、遠路大儀である。……して源常陸介義重殿はご息災か」
秀吉は佐竹氏が源氏の流れを汲むことを殊更、強調し名門家を上からの物言いで平伏させる様を周りの諸大名に見せつけた。
「ははっ。息災にございます。父義重より此度の北条攻めに微力ながら関白殿下にお力添えをするよう言い付かって参りました。こなたに控えし一族郎党並びに宇都宮弥三郎国綱ら共々ご陣の末席にお加え戴きますれば幸甚の極みに存じます」
脇息に片肘をついた秀吉は人懐っこい眼差しを義宣に向けると強烈な尾張訛りを放った。
「かたじけにゃあ。義宣殿に加わってもらやぁ万人力だで、北条も近きゃあうちに落ちるわ。そのうち、おみゃあさんにも働いてもらうわ、まあ、ちょこっと小田原見物でもしときゃあええがや」
秀吉の甲高くてよく通る声が早雲寺の大堂伽藍に響き渡った。
織田信長亡き後、秀吉は中国大返しで謀叛人惟任日向守光秀を山崎に討ち果たすと次に目障りな柴田勝家を賤ケ岳の合戦で屠り信長の「天下」を織田家から引き継いだ。その後、秀吉は続けざまに四国の長宗我部、九州の島津を相次いで平定し、ここ小田原で佐竹、宇都宮、多賀谷などの関東諸侯が臣礼をとった今、天下統一まで残すは北条と奥羽のみとなっていた。
秀吉は小田原の北条氏政、氏直父子に対し上洛して恭順の意を示すよう再三にわたって要請してきたのだが、父子はそれを無視し続け、さらに上洛の条件として上野国の真田昌幸の所領である沼田領を要求し、その大部分を手中に収めた。にも拘らず秀吉との約束を反故にして上洛しようとしないばかりか真田昌幸に安堵した名胡桃の地まで押領したのである。これで北条討伐の口実が出来た。
天正十七年十一月、秀吉は北条追討の軍令を発した。