壱の章 臣従
小田原陣
佐竹にとって秀吉の北条征伐は、まさに願ってもないことであった。ことあるごとに軍事介入をしてくる北条は目の上の瘤のように目障りであった。
佐竹の所領である陸奥南郷を巡り紛争が起きると小田原北条は伊達政宗と、またある時は芦名盛氏や白河義親らと謀り、その留守を窺っては常陸への侵攻を繰り返しており隣国の宇都宮氏も同じように挟み撃ちに遭い、その辛酸を舐めてきていたのだから佐竹、宇都宮両家が小躍りしながら参陣したことは言うまでもない。
義宣は宇都宮国綱とは父方の従兄弟に当たり、伊達政宗とは母方の従兄弟に当たる。同じ従兄弟同士だが国綱とは常に提携関係を保ち、政宗とは常に敵対関係にあった。
北条追討の軍令が常陸の佐竹に届いたのは十一月二十八日であったが、折しも陸奥南郷で伊達政宗と対戦の最中であり陣を退くわけにはいかなかった。
しかし、翌天正十八年になると秀吉は宮中に参内し帝から節刀 (せっとう)を賜り北条を朝敵とした上で三月、関東へ向け軍を率いて京を発った。
義宣は秀吉自身が京都を発ったという報せを受けると南郷の陣を引き払って常陸に帰り、宇都宮国綱や佐竹の与力大名らを率いて出陣した。その軍勢一万余は途中の北条方の支城、壬生や鹿沼を攻略しながら進軍し、五月二十五日に秀吉の側近、石田治部少輔三成や増田右衛門尉長盛らに迎えられて小田原に入った。義宣は関白謁見の後、出陣の軍令が発せられるまでの間に石田三成の計らいで小田原を見て回った。
小さな砦のような城館しか知らない義宣は総構え周りが五里といわれる小田原城の大きさに目を奪われた。石垣の上の井楼 (せいろう)や隅々に立つ櫓は天に聳え、そして各持ち場になびく夥(おびただ)しい馬印や差物の旗は吉野、立田の花紅葉にやたとえんとばかりに風に翻っている。
二十万とも二十五万ともいわれる秀吉軍は、その小田原城を十重二十重と囲み相模の海に目を転ずれば、これまた大船小船合わせて六千艘を超える軍船が浮かび烏鷺(うろ)[囲碁]にたとえれば最早この時点で投了の局面である。
町場に戻れば往来は兵糧米や物資の運搬で人夫や馬で溢れ返り、町人が小屋を出して商いを為せば市場の様相を呈し、遊女屋が小屋をかけ茶屋、旅籠までもが街道沿いに並んでいる。しかも参陣している大名たちの陣屋を覗いてみると植木や草花、さらには野菜などを庭に植え書院や数寄屋を建てて酒宴、遊舞に興じ茶を点て詩歌を吟じ、まるであと一手の詰め碁を楽しんでいるかのようにも見える。