当の秀吉も淀の方を上方から呼び寄せ、千利休に度々茶会を開かせていると聞いた。

その一方では石垣山に密かに城を築いているという。

─何という規模のでかい戦であろうか─

義宣とても小田原見物をして初めて触れる上方文化に目を奪われていただけではない。石田三成を通じて秀吉に伊達政宗の不法侵略を訴えていた。

政宗は私闘を禁じた惣無事令を無視し、絶えず隣国を侵犯し二本松の畠山義継を攻め昨年は義宣の弟、芦名盛重を黒川城に攻め落として乗っ取り、さらには政宗の叔母に当たる須賀川の二階堂氏も攻めた。そのほかにも相馬、石川、岩城などとも紛争の絶え間がなく、そのため民百姓は戦乱の度に家を焼かれ田畑を荒らされ難儀している。佐竹父子が政宗を討伐しようと考えたが私兵を動かせないのでこの場を借りて言上するものであると訴えた。そのほかにも水戸の江戸氏や府中の大掾 (だいじょう)氏をはじめとする南部の豪族たちが我々のこの度の陣ぶれにも呼応せず反旗を翻し虎視眈々と領土拡大を狙っていることを訴えた。

ある時こんな噂が流れ、寄せ手の陣全体が大きくざわめいたことがあった。

その風聞によれば徳川家康と織田信長の次男である織田信雄 (のぶかつ)が城方に通じており時を示し合わせて北条方が九つ全ての城門から一斉に撃って出る。と同時に家康と信雄が寄せ手の陣で呼応するというものであった。

─すわ、六年前の小牧長久手の戦いの再現か─と皆、息を呑んだ。

その戦の役者が今回の噂の役者と全く同じだったからである。先の戦いは秀吉が仕かけた戦だが戦闘だけを見れば秀吉は味方の池田恒興と森長可を失って負け戦だった。しかし秀吉は得意の懐柔策で織田信雄と単独講和を結び信雄の織田後継を諦めさせた。さらに信雄の同盟者である越中の佐々成政を孤立させ遠州の家康と連携させなかったという意味で秀吉の戦略的勝利に終わった。

この如何にもありそうな噂を流したのは北条の忍び集団"風魔"の仕業である。この噂を信じ真面目にどちらに就こうか迷った大名もいたという。

【前回の記事を読む】時は戦国時代。常陸国太田郷に生を受けた佐竹義宣の前半生を描く歴史小説