壱の章 臣従

【戦国余話─甲斐姫編】

この武勇談を聞いた好色な秀吉が放って置くわけがない。早速氏長に娘の甲斐姫を側室に差し出すように命じ大坂城に迎え入れ淀殿ほか十数人の側室の一人になったといわれているが次のような話もある。

話は忍城開城時に戻るが秀吉の開城の条件は「城の将兵に咎めなし。私財についても没収せず、領民たちも以前の居所、財産を安堵する」という前代未聞の寛大な処置であったことから甲斐姫の側室話が裏の条件であったともいわれている。

のちの話だが側室として大坂城に入った甲斐姫は秀吉との寝物語で父氏長の所領を下野国烏山城三万七千石までちゃっかり寝取ったようである。秀吉の死後も大坂城にあり同じ側室の一人である淀殿とも仲が良く秀頼の守役を頼まれている。

その後、秀頼は家康の孫である千姫と結婚したが子には恵まれず側室である伊茶との間に長男国松丸が誕生、また別の側室お石の方から奈阿姫が生まれた。やがて大坂夏の陣で徳川方からの総攻撃を受けて大坂城は落城する。

紅蓮の炎で燃え盛る城から甲斐姫は秀頼の子供二人と共に脱出するが長男国松丸は途中で捕らわれ京都六条河原で処刑され豊臣家は滅亡する。

奈阿姫は千姫の養女となっていたため助命され出家して鎌倉の東慶寺[縁切り寺として有名]に入寺させられた。甲斐姫もその時、一緒に入寺している。のちに奈阿姫は東慶寺二十世天秀尼となり「縁切り法」を確立させたという。

なお、またまた余計な話ではあるが甲斐姫が守役として育てた奈阿姫は秀頼と彼女自身の間に出来た子供であるという説があることも加筆しておこう。

休題のついでにこれからの筋書きを分かりやすくするため佐竹家の出自と義宣の家族関係についてざっと触れておかなければならない。

佐竹家の出自〔連載第1回 佐竹氏略系図参照〕

【連載第1回】時は戦国時代。常陸国太田郷に生を受けた佐竹義宣の前半生を描く歴史小説

佐竹氏の始祖は第五十六代清和天皇の後裔で源頼義の第三子、新羅(しんら)三郎源義光である。義光が兄の八幡太郎源義家と共に後三年の役を平定したことは一般に知られている所である。