寛治元年というから一〇八七年のことである。大雑把に言えば平安後期に当たる。その後、義光は刑部丞の職にありながら京に戻らず常陸国に居を構えたようである。その孫の昌義が佐竹郷に居住し佐竹を名乗った。初代である。

義宣を佐竹宗家十九代または二十代という場合がある。これは昌義の庶嫡子、忠義を二代目とするかどうかによるのだが筆者は忠義が短期間だが二代目を継ぎ西金砂合戦で討死後、弟の隆義が三代目を継いだという説を支持し義宣を二十代目の当主とする。

家族紹介

天正十八年現在の太田在城の家族構成は次の通り。

[義宣からの自己紹介]この物語の主人公である佐竹次郎義宣です。十六歳で家督を継ぎ佐竹家二十代目の当主です。現在二十一歳。

父、佐竹常陸介義重は先代当主。既に隠居して「北城様」と呼ばれ私の強力な後ろ盾となってくれている。「坂東太郎」とか「鬼義重」とか呼ばれて周辺各地から恐れられていたそうだ。現在四十四歳。

母は伊達晴宗の五女[宝寿院]で「大御台(おおみだい)」とか「お袋様」と呼ばれている。佐竹に嫁ぎながらも生家を大事にして伊達との戦では何かと口出しをしてくるので閉口している。嫁いびりも天下一品である。四十一歳。

私の正妻は那須資胤の娘で珠子[正洞院]という。三歳年上だから歳は二十四歳の姉さん女房。十九歳の時に私に輿入れした。「那須御台」とか「御台様」と呼ばれている。大御台の嫁いびりの標的になっている。現在、私の子を宿している。

ほかに多賀谷重経の娘で九歳の江於(おごう)[大寿院]という側室がいる。彼女は七歳の時に多賀谷家から人質として佐竹家にお預けの身となったが、そのまま側室となり二年が経つ。

側室といってもまだ女のしるしはない。天真爛漫が着物を着ているような性格[のちに継室となり「御台」とか「於江の方」と呼ばれる]。

【前回の記事を読む】義宣は思う。「戦に負けてはならぬ、どんな手を使っても勝って生き抜くのだ」と

 

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