プロローグ
文治五年(一一八九年)
旧暦四月三十日 三十一歳
奥州/平泉 衣川
絡げた裳裾(もすそ)を水飛沫(みずしぶき)で濡らし、川底の小石の上でよろめく足元を確かめつつ、妻は水遊びの子を呼んでいる。
陽の光は煌めき、水の飛沫、飛ぶ虫の翅(はね)、笑う子の白歯、脇に置いた太刀の鍔(つば)の上に揺蕩(たゆと)う。
「お方様、水の中さ入らねぇで、戻ってくなんしぇ」
下女のきぬが水を跳ね返しながら川に入り、妻の脇を通って娘の方へと急ぐ。水の中に座っていた娘を抱き上げてきぬが岸辺に戻ってくると、河原の温かい石の上に座らせ、それを妻が麻布でくるんで躰を拭き始める。
「都子(みやこ)や、まだ水が冷たいのにそんなに濡れたらいけません。早うお屋敷に戻りましょ」
母の言葉に娘はイヤイヤをし、
「嫌、都子もっと遊びたい」
と、拗ねて見せる。そう云う蕾のような紅い唇が少し蒼ざめているのを妻はそのまま抱き上げて、
「殿、都子が風邪をひくといけませんで、連れてお先に戻らしていただきますえ」
と、傍らで胡坐をかいて座っている九郎を振り返った。
しかし都子は母の腕の中で又イヤイヤをし、
「うちはきぬと一緒に戻って、手毬遊びがしたい」
「都子、そしたらあんたは先にきぬとお戻り、父はお母(たあ)様と今少しここに居るわな」
無精髥の伸びた父の穏やかな声に、都子はちらと父を見てからすぐ前を向き、小さな手に河原の石を握ったまま、大人しくきぬに抱かれて屋敷の方へと戻っていった。
うららかな陽も少し傾きかけ、微風が川面を渡ってくる。燕が水面をかすめて飛んでゆく。九郎は脇に置いてある塗箱の中からわらび餅を一つ摘み、頰張っている。