第一章
承安五年(一一七五年)
旧暦三月二十二日 十七歳
奥州/平泉 伽羅(きゃら)ノ御所
平泉の春は遅い。御所庭の山桜が今日を盛りと満開の、薄紅の雲の中から、思い出したように閑雅な間を置いて、花片がひとひら、或いは又ひとひらと舞い落ち、釣殿で書見をする秀衡の膝を時として訪う。無風、静謐(せいひつ)、一幅の絵画の中の点景と成り果て、現身(うつしみ)すら失ったような極楽境を翫味(がんみ)していた。
「殿、只今御門の所に乞食(ほいと)の様な若者が案内を乞うており申す」
所従が渡殿(わたどの)で手をついて言上する。
絵画の点景だった殿は、静謐を奪われて物憂そうに云う。
「そんな事か。やらってしまえ」
「それが、昨日の朝からやらってもやらっても戻ってきて、そこで動きませぬ。驚く事に、衣川の大殿様の親戚だと申しております」
秀衡は書物から目を上げると、眉根を寄せて、
「何だと。名乗りは」
「源義経と申しております」
一瞬目を見開いた秀衡は、暫しして、
「何、源義経とな。面白い、会(お)うてみるか、庭へ通せ」
秀衡が渡殿を歩いて寝殿に戻り、奥の御帳台に入って座すと、程無く従僕に案内されて足音が近づき、鎮まった。所従が庇の几帳を巻き上げると、庭先に小柄な男が跪いて頭を垂れているのが見えた。
「面を上げよ」
その言葉にゆっくりと顔を上げた若い男は、秀衡をはたと見詰めると、何と顔を綻ばせて実に嬉しそうに笑ったのだ。
注1 千歳丸:九郎と郷の嫡男
注2 御屋形様:藤原秀衡
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