「殿、お寒くはありませぬか、風出てきましたな」

「御許(おもと)も着物の裾がまだ濡れとる。これ羽織ったらええ」

九郎はそう云って、自らの脱ぎ捨てた狩衣を拾い、妻の肩に掛けてやった。

「済まぬことです」

郷(さと)は少しはにかんだように笑む。

弁慶が、後ろの茂みの脇の石に腰掛けて、長刀(なぎなた)を突いたまま居眠りをしている。

わらび餅をまだ口に含んでいた夫は、急に咳込んだ。

それを見て郷は、今掛けられた衣を急いで夫の背に掛け替えながら、

「このところずっと、よう咳をされますなぁ。お風邪が続いとりますのか」

と、そっとその顔を覗き込む。

「何ともない、餅が喉につかえただけや」

夫はそう云って、後ろに長々と躰を横たえた。

郷は、仰向けになった夫の背中に敷かれた狩衣をその胸の上に掛け直そうとしたが、笑って拒まれ、それを畳み直した。

そのまま時が過ぎていき、そのうち、九郎の横で青空を見上げていた郷は、呟くように云った。

「千歳丸注1はどうしております事よ。亡き御屋形様注2のお計らいで、下野国へ落ちてからやがて二年にもなります。数えて九つ、さぞや身の丈も大きゅうおなりでしょうな」

九郎は何も答えなかったが、暫ししてから郷の背に腕を伸ばして、軽く撫でた。

やがて川向こうの土手の先、今日主従で招かれてきた、基成(もとなり)公の衣川館の方角から、笙(しょう)・篳篥(ひちりき)の音が聞こえてきた。

「あれは」

「衣川の大殿様が、今宵の宴の為に、伽羅ノ御所から楽人を召されたそうな」

瀬の音、川面の風、ひらひらと舞う蝶の間に密かに流れる楽音を聞き澄まし、二人はそのまま暫しそこに動かなかった。

それは、聞くや魂の陶然となり抜け出てゆくような、遥かなる懐かしい都の訪(おとな)いであり、知らずしてこの世の最期の日に見る、華やかな昔日の夢の幻影だった。