定期バスはアンナ先生の家の近くまで連れていってくれる。或いはフェリーで行くことも出来るが、この方は時間が掛かる。ストレーザからはバスでも船でも次のストップなのだが、何しろ交通機関は一時間に一本だ。だから車がないと不便である。バス停からは急な坂道を十五分ほど歩かねばならないが、少しは運動した方がいいだろう。

この湖畔の先生の家で私は週三回レッスンを受けることになった。これは中々の特典である。ただし先生は音楽学院の教授をしていた時から弟子たちを使い走りに使う習慣があった。タクシーを呼んだり、電話を掛けて相手が出てきたら取り次いだり、雑用は全て弟子任せだ。

プリマドンナというものはそれぐらいの威厳を持っていなければだめだ。だから夏の間は私が先生の小間使い役を買って出なくてはならないと覚悟した。

マッジョーレ湖はイタリアとスイスの国境を南北にまたいだ細長い湖である。その北側の四分の一くらいはスイス領で、湖畔の町ロカルノは有名な景勝地である。

アメリカの文豪アーネスト・ヘミングウェイの第一次世界大戦を背景にした小説、『武器よさらば』の中で、主人公のアメリカ人のイタリア軍志願兵が脱走して、従軍看護婦の恋人と小舟を漕いで逃げていく場面の舞台になったところである。

ストレーザは普段は人口五千人の町だが、夏になると避暑客で人口はその十倍に膨れ上がる。典型的なヨーロッパの高級避暑地で、湖岸には高級ホテルが並んでいる。

マッジョーレ湖は同じ北イタリアの湖水地方でも深くて暗いコモ湖と違い、水深が比較的浅くて水の色は明るい。それにコモ湖は昔から裕福な貴族が別荘を持っていた関係で、気取った雰囲気なのに対して、マッジョーレ湖はもう少し庶民的でホテルの値段も比較的安い。

ストレーザには国立の小、中学校がある。しかしイタリアの学校は今大きな問題を抱えている。移民の子供が増えて、その多くはイタリア語が出来ない。この町の小学校は学習困難な子供の為に専任の教師がいる。でも十歳になっているのに、今まで全く学校に行ったことがないという子供が入ってきたりする。その子供は教室の後ろを徘徊したり大声を出したりして勉強の妨げになっているらしい。

ストレーザから見て山の向こう側の別のコムーネにある小学校は、児童の四人に一人が移民の子供だという。実際イタリアの先生たちはよくやっていると思う。外国人子女への対策が貧しく、予算がなくて日本語習得をボランティアに頼るしかない日本とは大きな違いだ。

ストレーザには高校、大学はなく、町の外に出て行くしかない。

ストレーザからボートで七、八分ほどの湖の中ほどにあるイゾラベッラ(〝美しい島〟の意味)という島には、この辺りの領主のボロメオ公爵家の宮殿がある。

ボロメオ家は列聖されたミラノの大司教などを輩出した古い名門である。宮殿の段々になったテラスには花が咲き乱れ、庭には白クジャクが歩き回っている。宮殿の地下には人工の洞窟(グロット)がある。かの英雄ナポレオンは当時の宮殿の主と交友関係があり、若かりし日に島の宮殿を妻のジョゼフィーヌと共に訪れたことがある。ナポレオンは半分はイタリアの英雄でもあるのだ。

私はストレーザの町に滞在することにした。そこなら気の利いた人は皆バカンスに行っていて、ガランとしているミラノよりずっと快適に過ごせる。

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