「余は、今迄禅宗の悟りということを誤解していた。悟りということは、如何なる場合にも平気で死ねることかと思っていたのは間違いで、如何なる場合にも平気で生きて居ることであった。」

これは、21日目の文章である。彼は127日目の回を書き終えた2日後に没している。壮絶な闘病生活の中で、好奇心を失わず毎日を生ききる姿には感嘆させられる。

正岡子規を引き合いに出すまでもなく、死に際の生き様は、一人ひとり全く違うのだろう。いろいろな生き様、死に方の良し悪しを考えてみても、結局生き様の方が大事という結論になる。良い「死に方」、良い「死に際」も、「生き様」の内なのである。

(3)死んでからでは遊べない

人間が動物より文化的に優位に立ったのは、言葉や文字などの意思を伝達する手段を手に入れたこと、二足歩行の結果空いた手で道具を作ったことなどが、はじめの一歩ということになっている。

そして、決定的に違うことは、人間は「遊ぶことができる」ことだ。これは、私が言っているのではなく、古くから洋の東西を問わず言われている。

ホイジンガが言うʻホモ・ルーデンス(遊ぶ人)ʼである。ホイジンガ先生は、遊びの本質的なおもしろさを研究したオランダの人で、何の躊躇いもなく「人は遊ぶために生まれてきた。」と喝破している。