1 さて、お別れに、何を残そうか……
(2)死に方より生き様
このことは、「料理」と同じである。美味しく作るために、食材を吟味し調味料や調理法をあれこれ考える。見事完成したら、その料理の出来栄えなどを話題にしながら楽しく頂くが、料理やお酒がなくなるころには、お開きにしなければならない。
その後に待っているのが、楽しさに見合った分の全く楽しくない片づけと食器洗いである。家庭の料理と食事では、楽しい宴の後でも次の日には同じ場所で次の食事を作らなければならない。作る作業と、整理片づけの作業が繰り返される。
人生と料理は、工程は同じようなものだが繰り返しがあるかないかで大きく異なる。人生では、ご本人が、十分に宴を楽しんだ後、オレは疲れたからもう寝ると退場された場合、一回きりの人生を終えてお休みになっているのを起こすこともできないので、誰かが必ず後始末をしなければならない。
お休みになるご本人の段取りが良ければ、片づけも大したことはないかもしれないが、あちこち散らかしっぱなしでは、後始末が大変なことになる。
やはり、発つ鳥が跡を濁さないためには、片づけが必要だし、これが「終わりの美学」のあまり美しくない現実である。
生き様、死に方、死に際について、あれこれ惰論をむさぼってきたが、正岡子規が結核の病床で新聞に連載の形で書き綴った随筆(病牀六尺)から、一文引用したい。