「噂は堺でも評判でございます。私がザビエル殿に堺でお会いしてから、早や二五年となります。豊後には、是非とも一度行ってみたいものです」

「宗麟様からは、早々に来府するようにと何度も催促がございます。私が参ります際には、お声掛け致しましょう」

聚光院は翌年七月に落慶した。方丈内の障壁画は「瀟湘八景図」八面と「竹虎遊猿図」六面の他、「蓮鷺藻魚図」六面「花鳥図」二面の小襖が現存している。

その内で、瀟湘八景図と竹虎遊猿図が現在国宝に指定されている。聚光院と言えば『狩野永徳』を語らなければならないが、それは後述。

この頃宗易の茶の湯は行き詰まっていた。

一月二七日、「宗易」号の名付け親「大林宗套」が遷化した。南宗寺での葬儀の際は、我が茶の師「紹鷗」の事も思っていた。

かつて、大林は紹鷗に「一閑」号を与え、その際肖像画に、

料知茶味同禅味 吸尽松風意未塵の偈を賛している。「茶禅一味」である。師の一三回忌を迎えても、宗易の心境は暗中模索の状態であった。

「何かが足りない。私の目指しているものは、ここではない。北向道陳様、武野紹鷗様の門を叩いて三〇年。その『枠の中』を守ってきた。それを打ち破る何かが欲しい。

そうしなければ、『守破離』として自らの離の境地に達することは生涯叶うまい。唯一無二の『私の茶』は、どこにあるのだろうか。この暗闇に差し込む光明はないのだろうか」

聚光院の落慶を終え一段落したころ、松栄の誘いのまま、宗易は豊後を目指した。

大友宗麟は三八歳。二〇歳で父と弟を殺し(二階崩れの変)二一代当主となった。

父義鑑(よしあき)は豊後国(大分県)と筑後国(福岡・佐賀県の一部)の守護大名であった。宗麟の代になって後、天文二三(一五五四)年に肥後国(熊本県)、弘治三(一五五七)年に筑前国(福岡県)を手に入れた。

永禄三(一五六〇)年に左衛門督に任じられ、大友氏の全盛期を勝ち取った。永禄六年には足利義輝の相伴衆に任じられている。

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