九十九髪
天文一八(一五四九)年。あの「宮王三郎の茶会」が行われた前年。鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルは、日本に初めてキリスト教をもたらした。
天文二〇年一月ザビエルは堺を経由して上洛を果たす。しかし、天皇に謁見することもかなわず、町の荒廃を見て都での布教を断念している。九州や山口での布教成果を踏まえ、都での本格的な布教が始まるのは、八年後である。
ポルトガル人宣教師ヴィレラと、日本人修道士ロレンソ、同宿ダミアンが送り込まれたのであった。それから六年が経ち大きな成果を上げたが、将軍義輝の死と松永久秀の台頭によって、再び水泡に帰すかに見えた。
「ヴィレラ様、この度は本当に悔しゅうございます」
ダミアンは涙顔で訴えた。
「六年前我らが都に派遣された際は、誰一人として信者はいなかったではないか。それが三好長慶様、細川様のお力で将軍義輝様にお目通りが叶い、『三カ条の禁制』を賜る事が出来たのだ」
ヴィレラはダミアンを諭した。禁制とは、
一、パードレの家で乱暴しない
二、武将の宿舎としない 悪口を言わない
三、不合理な税や負担を課さない
の三カ条である。
これにより、都での滞在が許可された。布教の安全が確保され、説教や宗論に人が集まりだしたのである。
「あの『禁制』を頂いてから先ず、一〇〇人程の改宗者が出ました。その中には、大徳寺の老僧、他宗の仏僧、公家など貴人の方々一五人もおられます」
ロレンソが続けた。
「そうであったの。あの時の三好様と、建仁寺永源庵様のお力がなければ、姥柳町の家を求め教会とすることも叶わなかった」
「その後都での戦が続いた為、我々は堺に逃れました。しかし堺滞在中に、日本の諸宗教に精通した大学者結城(ゆうき)山城守進斎アンリケ様・清原枝賢(えだかた)様始め、大和の沢城城主高山飛騨守ダリオ様、高山彦五郎(後の右近)ジュスト様など、ご家族だけでなく臣下の方々も大勢改宗されました。ヴィレラ様、ロレンソ様のお力でございます」