「三カ月足らずで、大和・河内・摂津に五つの教会が建てられました。今年の聖週間と復活祭(イースターとその前の一週間の事)は誠に盛大に行われました。六年間の努力がやっと実ったのでございます」

「三好長慶様だけでなく弟の実休様のお力も有難かったの。実休様は三年前、長慶様は昨年お亡くなりになられ、二カ月前にはこうして足利義輝様が殺害されてしまわれた」

「それでこの度の突然の『伴天連(バテレン)追放令』でございます」

「実休様の御家臣篠原長房様が朝廷に働きかけてくださっているが」

「裏では松永久秀様が朝廷を動かしておられるようです」

「あの方は法華宗でございますからな」

「暫く都を離れるしか手はございません」

二人の日本人修道士を残して、宣教師達は都を離れた。

次に宣教師フロイス等が上洛するのは三年後、信長の上洛まで待つ事となるのである。

義輝の死を受け入れ難い人間がもう一人いた。狩野源四郎である。二三歳の若き絵師、後の狩野永徳である。この時源四郎は、義輝より依頼の屛風の仕上げに掛かろうとしていた。

贈る相手は、上杉輝虎(後の謙信)と聞いている。輝虎は四年前、関東管領となっている。上洛の際、義輝より「輝」の一字を拝領、景虎を輝虎と改名したのである。そして義輝は、祝いの屛風を輝虎に贈る為、源四郎に発注したのであった。

「洛中洛外」の様子を克明に描き、二千数百人の都人を生き生きと書き表した。しかもその中には、「幼き義輝」と、公方邸に参上する「輝虎」を書き加えたのである。祇園祭の賑やかな囃子や、川のせせらぎ、街の喧騒が聞こえてくるようである。

源四郎は依頼主を失った屛風を仕上げた。この後この屛風は、狩野永徳の最大のパトロンとなった織田信長に依って、信長よりの依頼で描き上げた「源氏物語屛風」と共に、予定通り上杉謙信に届けられている。(『洛中洛外図屛風』は現在山形県米沢市上杉博物館所蔵)

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