朝鮮渡海

永禄九(一五六六)年、三好義継は、父長慶の菩提を弔う為に、京都大徳寺に聚光院(じゅこういん)を開創した。実は長慶は、二年前の永禄七年七月に病没している。しかし後継の義継が若輩(一五歳)の為、二年間喪は伏された。永禄九年公表、葬儀が執り行われたのである。

前年から大仙院・裁松院の敷地が拡げられ、聚光院建設の為の準備がされている。開山は笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)。長慶の戒名「聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門」により「聚光院」と名付けられた。

大仙院は、津田宗達と今井宗久を檀越外護者としている。従って新築の聚光院に対する宗易の思いは、津田・今井に対するライバル心もあって、格別強いものであった。

宗易は三好義継に対して、方丈障壁画の寄進を願い出たのである。作者として依頼したのは狩野家当主「松栄」であった。狩野松栄はこの時四八歳。

後奈良天皇が贔屓とした「狩野元信」の三男として生まれ、七年前に元信、続いて兄を亡くし、現在は多くの弟子を束ねる狩野派一門の棟梁である。三年前の永禄六年には、大徳寺に「涅槃図」を寄進している。笑嶺とはその時からのよしみである。

「松栄殿ご無沙汰しております。この度は聚光院障壁画製作のお願いをご快諾頂き、ありがとうございました。とても楽しみにしておりますぞ」

「笑嶺様、お礼はこちらの方こそ申し上げるべきでございます。大徳寺南派の瑞峯院様には大友義鎮(よしとも)様の御依頼で、障壁画を寄進させて頂きました。この度こうして、北派の聚光院様にご縁を賜り、一門嬉しい限りでございます」宗易が続く。

「松栄殿には『瀟湘八景(しょうしょうはっけい)』と『虎』『猿』をお願い致します」

「宗易様承りました。渾身の思いで描かせて頂きます」

この頃、大徳寺の山内塔頭は、真珠派、龍泉派、南派、北派の四派に分かれている。応仁の乱により焼失後再建又は創建された「真珠庵」「龍泉庵」「龍源院」「大仙院」をそれぞれ本院としているのである。

宗易は松栄に尋ねた。「瑞峯院のご住職が怡雲(いうん)老師ですね」

「はい。開祖は徹岫宗九(てっしゅうそうきゅう)様で法嗣が怡雲様でございます。豊後の大友家の菩提寺で、御当主義鎮様も修道御熱心。

亡くなられた足利義輝様の相伴衆もされましたし、この度得度され、『瑞峯院殿瑞峰宗麟居士』となられました。ご自身も『大友宗麟』と名乗っておられます。伴天連にも御理解があり、豊後の府内は伴天連の船が入港し、大層賑やかだそうでございます」