僕と佐渡のおばちゃんの文通

小学校6年生最後の3学期は、一度も学校に行くことなく卒業した。母の友人宅に居候して迎えた中学受験を終えると、次は母との病院生活が待っていた。

僕の母は、僕が物心ついた頃から常に体の具合が悪く、近所のお医者さんに長年診てもらっていたが、僕が小学校6年生に上がった頃には、いよいよ起き上がれなくなり、大きな病院へ診察に行った結果は、余命数か月の末期がんだった。

即入院が必要となり、やがて症状の重いがん患者を受け入れる国立病院へ転院した。

四人家族ではあったが、父は諸事情で外国にいて帰国もままならず、兄もアメリカ留学に行ったばかりで、母からは「心配ないから当分帰国してはならぬ」の手紙を受けとっていた。

一人僕は、母が亡くなるまでの短い期間を一緒に過ごすため、病院に頼み込んで母のベッドの隣に簡易ベッドを置かせてもらい一日を過ごした。少しでも長く母のそばにいたかった。

この頃になるといつ逝くかもわからないので、外出もままならず、3度の食事も病院の食堂で済ませ、24時間を病院で過ごした。

そんな時、母の身のまわりのお世話をしてくれる付添人としてやってきたのが、〝佐渡のおばちゃん〟だ。

文字通り彼女は佐渡の出身で、〝佐渡〟は当時子供だった私にはまるで外国のような遠い場所のイメージがあり、この遠い佐渡から来た付添人を、〝佐渡のおばちゃん〟と呼ぶことにした。

入院後の母は、意識がなくなる時間が次第に増えていったが、本人よりだいぶ年上のこの佐渡のおばちゃんをとても気に入り、「本当に良い人に来てもらえた」と喜んだ。

一方の佐渡のおばちゃんも、「歳は私よりずいぶんとお若いけど、とてもしっかりした考えをお持ちで、素敵なお母さまね」と僕に語り、お互いの相性も良く、すぐに仲良くなった。

母は素直な人だったので〝ありがとう〟の気持ちをストレートに伝えたことが良かったのだと思う。自分から先に思いを伝えることが、その後の良好な人間関係を育むことになることを、この時母から学んだ。

そして大好きな母のことを好いてくれるなら、と僕もこの佐渡のおばちゃんが好きになり、程なく僕ともお友達になった。

お友達。

そう、なぜなら僕の話し相手はこの佐渡のおばちゃんしかいない。看護婦さんは、すれ違うと頭を撫でてくれたり、休み明けの出勤時にはお菓子をくれたり、何かと可愛がってくれたが、なにぶん忙しい。

佐渡のおばちゃんの実家は農家で、お子さん夫婦が継いでお米を作っている。東京で働いているが、歳と共に体調が次第に悪くなり、実家に帰ることにした。母の付き添いの仕事が、東京での最後の仕事である。

僕は一日の殆どを、この佐渡のおばちゃんとのおしゃべりで過ごし、非日常ながらも穏やかな日々が過ぎてゆく。二人のおしゃべりの中でも佐渡のおばちゃんのお気に入りは、僕の〝中学受験〟のエピソードだ。

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