ところが、国の教育政策がコミュニケーション主体へと変遷してきた上記のような背景に対して、実際は多くの教師がこの方針に困難と困惑を感じつつ手探りで授業に臨んでいます。
例えば、4技能の目標が学習指導要領で初めて取り上げられたおよそ30年前から、一部でクラスルーム・イングリッシュを使うことはあっても11、コミュニケーションへの自信不足や入試のための演習、クラス人数の多さなどから日本語が主に使われてきました12,13,14。
また入試における文法重視の傾向は近年もあり15,16、英語運用に不安を抱えつつ訳読と口頭スキルの「二足の草鞋」を履いてジレンマに陥る教師17,18や、やり甲斐を感じられない教師や生徒も少なからずいます19,20。
2000年以降の学校におけるインストラクションの研究においても、日本人教師には母語(日本語)行使の傾向が依然として高いことが実証的に示されています21,22,23,24。
こうした動機減退の状況は、国をあげて日本より早く英語教育改革に乗り出した韓国でも同様に見られ、母語の洗練と削減は国際的にも今日的課題となっています25,26,27,28,29,30。
英語教育を母語の観点から考えることが重要です。しかし、私はここで日本語による文法や入試のための演習、あるいは母語で思考することが重要だと言いたいのではありません。
ある社会的環境では、教育にとっての母語が非常に強力でしぶとい教育資源だということを強調しておきたいのです。母語の「しぶとさ」については後ほど述べるつもりですので、ここでは母語と単一言語(モノリンガル)社会の関係について説明します。
日本やアジア諸国の単一言語社会での外国語教育を研究したAtkinson(1993)という研究者は、日本や韓国の社会のように母語(第1言語)が唯一共通の生活言語である国では、教室からそうした単一言語(日本語)を完全に排除することはできないと言います31。