このように「趣旨や目標を共有しづらい印象をもたれる」ことが「内容」以上に大きな要因だったと思います注3)。現在の「総合的な学習の時間」が本当に子どもたちの総合的な力を育み、総合的な育ちを保証できているのかというと、なかなか難しい現状があります。

ただし、ここで強調しておきたいことは、このことは決して現場の先生方の問題ではなく、「予算や時間や制度の制約がある中で、他の業務とのバランスを考えていくと今のような現状にならざるを得ない」ということです。

教育に限らず、どんな分野でも「原則と運用が完全には一致しないこと」がありますが、「総合的な学習の時間」もこれが当てはまるといえます。


注1)高等学校では「総合的な探究の時間」という名称になっています。

注2)平成10年(1998年)当時の学習指導要領の総則でも「各学校における総合的な学習の時間の名称については、各学校において適切に定めるものとする」ことが示されていました。

注3)学習指導要領に示された「各教科の目標」を教師や子どもが認識しているかというと必ずしもそうではありません。しかし、教科については「通知表に評定が数値で記載される」という、「現実的な文脈での分かりやすいゴール」があります(道徳については、数値化された成績としないのは、特定の知識や考え方のみを正解とすることの危険性が背後にあると考えられます)。「総合的な学習の時間」の場合は文章による評価(評定ではありません)」となっているため、この評価は実質的には子どもたちの入試結果を左右するものにはなっていません。実際問題として教育的には好ましくないことですが、「文章による評価であるためにモチベーションが上がらない」という面もあるように思われます。

【前回の記事を読む】人的・時間的な制約の中で求められた「探究」という自発的な行為を「させる」学校現場

 

【イチオシ連載】【絵本】生まれたばかりの子犬に向けられた言葉「2匹か、少ないな」

【注目記事】妊娠を報告した後、逃げるように家を出てしまった彼。意を決して連絡してみると…