四十期と孔子の「論語」

孔子の論語と比べて、私の人生は……

「四十にして、惑わず」とはならず…… 私のこれまでの人生の半ば四十歳過ぎに、大変化があった。

それまで、自分の究極の目標と信じていた「研究・教育の大学」から「民間の会社」に転職することになった。

「学究の徒」から、一介のサラリーマンになったわけだ。したがって、孔子の言うように「四十にして、惑わず」とはならず、大いに惑ったのである。なぜそうなったかは後で詳しく述べる。

「五十にして天命を知る」ともならず…… 波乱含みの私の人生は、五十歳になっても治ることなく、揺れに揺れる。

イラクがクウェートに侵攻したことで起こった第三次オイルショックの影響で、原油価格は暴落。それまで勤めていた石油ガス会社の人員整理で失職。五十にして就職活動である。

見つかったのは、ボストンのベンチャー企業。テキサスはダラスからボストンまで、三千キロ近く、人間は息子・娘・妻・私、加えて猫一匹・犬二匹を連れて車三台で移動する。この会社に十二年勤務。

「六十にして耳順う」となったか? 耳順うとは他人の言葉が素直にわかるという意味だそうである。

還暦で退職しようという計画は少し遅れ、実際には六十二歳で日本に帰国。久しぶりで、生まれ育った杉並は永福町の家に住み始める。

それまでとはだいぶ違う環境で、いろいろな人と付き合いながら、一人で突き進むというよりみんなでワイワイ喋りながら、ゆっくり歩くという生活になった。

「七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず」とはなる。古稀を前にして、杉並の一軒家から多摩ニュータウンのマンションに住み替える。

多摩ニュータウンは、東京都西南部の多摩丘陵に位置する地域で、新たに開発され1970年代から入居が始まった。私はここが終の住処のつもりである。自分のやりたいことをしても、節度は超えないという気持ちには近付いている。

孔子はその先は考えていなかったようだ。八十にして……、九十にして……、そして、百歳にしては?