其の壱
[二]
カーテンを引こうと窓辺に寄った妻の彰子が不意に声を上げた。
「あら、雨だわ、雨が降ってきた」
「えっ、あめぇ、ほんとう?」
五歳になる娘の絵里子がまるで栗鼠のように窓辺へ駆け寄る。ポニーテールの下げ髪が活き活きと揺れた。
「へえ、雨か、昼間は晴れていたのにな」
渋谷洋一はウイスキーを注ぐ手を休め、二人の方へ目を向けた。この春初めての雨だった。やっと長かった冬が明けるのだ。
「これで街も少しはきれいになるな」
「でも、もうスキーができなくなっちゃう‥‥」
絵里子はちょっと残念そうだ。彰子は微笑んで二人の様子を見ている。土曜の団欒の一時だった。彼が酒を口にするのは珍しい。
「今日は何かいいことでもあったんですか?」
妻と娘は好奇の目で彼を見つめる。
「うん、まあね。ママは松川先生を憶えているだろう」
「あの挨拶状を下さった方でしょう、どんな先生だったかしら」
「昔の担任でね、学校を隅から隅まで歩かされたよ」
彼は微笑を浮かべて手のひらのグラスを玩ぶ。
「生真面目なところがちっとも変わってなくてねえ」
「ふうん、わたしも行けばよかったのかしら。来週にでも絵里子を連れて行ってみようかなぁ」
「やめとけよ、階段を上から下まで‥‥それこそ大変な目に遭うぜ」
彼が大仰な身振りをすると、母娘はくすくす笑った。
「さて、ご飯にしましょう。絵里ちゃん、手伝ってちょうだい」
「はあい」
彼はそんな二人を目で追いながら、またグラスを傾けた。
テーブルに放置されたグラスの氷が乾いた音を立てて崩れた。顔中がドクドクと脈打ち、ちょっと飲み過ぎたなと思う。もう脛まで真っ赤だ。妻も子もとうに寝室へ引き上げ、十五畳程の居間に残っているのは彼ひとりだった。
ストーブの火がチロチロと燃え、見てもいないテレビでは馬に跨がった髭面の男が鉄砲を撃ちまくっている。その乾いた音がよそごとのように室内に響いていた。もう十二時に近かった。彼は欠伸をするとおもむろに立ち上がった。
ところが居間を出て向かったのは寝室ではなく、棟続きの医院の方だった。酔いで身体中が火照っていた。こんな時彼はよく待合室のソファーで涼をとる。照明を落とした待合室はひんやりとして心地よかったのだ。
上の二階を占めている入院棟も寝静まり、時々宿直室からヒソヒソと声が漏れるほか何の物音もしない。耳を澄ますと、遠く国道を走る車の音が殷々と響いてくる。するとまるで水底にでもいるみたいに思われてくるのだ。