「何だか貝にでもなったみたいだなあ」

そう呟くと眠気がとろとろとやってきた。時々カクンと墜落感があり、いよいよ眠りに落ちそうだ。無意識のうちに口元が綻んで、何だかいい気持ちだった。

夢か現つのうちにひたひたと足音が寄せてきて、「先生、お風邪を召しますわ」と女の声がする。狸寝入りをしているとまた声がした。

「院長先生、こんな所で寝ているとお風邪を召しますよ」

それでも起きそうにない。看護師はちょっと困った様子をしていたが、やがてスタスタと足早に去っていった。渋谷医師は今度こそ本格的に眠る態勢に入っていた。だがまた足音がパタパタとやってきて、「こちらです、お願いします」と女の声がした。一呼吸おいて乱暴に揺り動かされる。

「院長、風邪を引きます、起きて下さい」

男の声だった。彼は薄目を開けたが、その途端にギクリとした。一瞬真顔になったかと思うと、ふっと肩の力を抜いて顔を顰めた。

「何だ伊藤君か、のっぺら坊かと思った」

「しっかりして下さいよ全く、のっぺら坊じゃないですよ。伊藤です、やれやれ相当飲んでいるな」

当直の伊藤医師の声音も迷惑気だ。成程この男の顔はのっぺりとして爬虫類めいた冷たさがあった。渋谷医師の表情が不機嫌そうに曇ったところをみると、あまりこの男を好いていないらしい。

二人は何かぼそぼそ相談していたが、やがて引き上げていった。そして再び看護師が毛布を持ってきた時、渋谷医師は軽く鼾をかいていた。

どれ程時間が経ったのだろう。不意に寒気に襲われて彼は跳ね起きた。一瞬どこにいるのか解らなかった。だが目が馴れるにつれて少しずつ記憶が戻ってきた。飲み過ぎで蟀谷がズキズキと痛んだ。喉が渇いていたが、寒気がひどくて立ち上がる気になれない。

壁の時計が一時半を示していた。随分と眠っていたような気がするが、それが小一時間程のことだったと知って吃驚した。「うぅん」と思わず呻くと、一層不快感が募ってきた。

まだ完全に酔っていた。どうしてこんなに飲んだのか自分でも判らない。彼は覚束ない足取りで奥の給湯室へ向かった。ところがふと診察室のドアが開いているのに気がついたのである。不機嫌そうに眉を寄せて中を覗いてみた。だが誰の姿もなかった。庭木越しの街灯が窓辺の机を照らしているだけで、中には微塵の乱れもなかった。

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