其の壱
[二]
念のため室内灯のスイッチを入れてみた。一瞬蛍光灯が点滅して目の奥が痛んだ。馴れるまで少し時間がかかった。まずは水が欲しかった。
彼は机の奥の手洗い場の蛇口を捻ると、ゴクゴクと喉を鳴らして水を呑みこんだ。余りにも多量に呑みこんだので胃がパンパンに膨れた。何だか喉元にまでびっしりと詰まっているような気がした。
「どうも今日は節度というものがない」
そう呟くとドサリと椅子に身を投げ出した。そして煙草に火を点けてみたのだが、どうも勝手が違う。診察室に入った時からしきりと誰かに見られているような気がするのだ。
窓のカーテンを引いてみたが、やはり何か落ち着かない。そう思って何気なく衝立ての方を見た瞬間、息を呑んで椅子から五センチばかり跳び上がった。
「アチチッ」
今度は膝の上に煙草を落として周章てふためいた。だが目は衝立ての方を見たままだった。そこに骸骨が立っていたのである。だが落ち着いてみると、それは古びた骨格標本なのだと知れた。それが衝立ての陰に立てかけてあっただけなのだ。
先程から気になっていた違和感の犯人はこいつだったのだ。彼は安堵の息を漏らした。だが心臓はまだ早鐘のように打っていた。目もまだ標本に向けられたままだった。
診察室には塵一つ落ちていなかった。彼はその清潔な雰囲気が好きだった。だが今目の前に得体の知れぬ骨格標本がある。昼間はこんなものはなかった。無論こんなものが搬入される話も聞いていなかった。
まだ実感も湧かないが、彼は今ベッド数五十を数える医院の長なのだ。その彼に何の相談もなくこんなものが運びこまれるはずがない。確かにここにも標本はあるが、それが人目につく所に置かれていたのはずっと昔のことだった。患者が嫌がるのでと、今は引退した父親が渋々物置に押し込んだのは、彼が中学生の頃のことだったのである。
彼はしげしげとその標本を見つめた。随分と古い物らしかった。全体に黄ばみが進行して、よく見ると関節や骨の凹みに沿ってうっすらと汚れが見えていた。だが何よりも奇妙なのは本物の人骨のような生々しさが感じられることだった。
「これはウチにあった物とは違うなあ‥‥」
酒臭い息を吐きながら彼は呟いた。以前あった標本は父親の方針でピカピカに磨き上げられていた。