其の壱
[一]
ところが彼は一度だけ、ほんの短い時間だが中へ入ったことがある。
それは流言の出る少し前のことで、授業で大型の地球儀を使った時のことだった。先生に急用が出来て代わりに戻すよう言いつかったのだ。彼は地球儀を抱え、鍵束をジャラジャラいわせて運んだ。
随分と重くて、落として壊したりしないかと不安になったことを覚えている。だが何よりもあの部屋に入れるという期待感で一杯だった。懐かしい想い出だった。目の前にそれを抱えた自分の姿が見えるかのようだった。
渋谷医師は目を細めて扉の上に掲げられたプレートを見ていた。黒地の板に白く「理科標本室」の文字。奇妙なことだが、それが二十年もの間ずっとこの訪問を待っていてくれたような気がした。
「さあ、行きましょうか」
老教諭は立ち止まる彼を促した。
「ええ、そうしましょうか」
老教諭と渋谷医師は歩き始めた。狭い通路に二人の足音が木霊して、それが少しずつ小さくなっていった。そして角の所で右に曲がると二人の姿は見えなくなった。コツコツ、ペタペタという音も消え、やがて通路はもとの静寂に帰った。
その夜雨が降った。この春初めての雨だった。街は重く垂れこめた雲に包まれ、しとしとと降る雨に煙っていた。件の小学校も闇に包まれてしっとりと雨に濡れていた。
午後十時を過ぎて交通量も減り、時々タクシーの行灯が行き来するほか、ほとんど車の通りもなくなった。街灯の届かぬ小学校は闇の中で一際黒々とした輪郭を浮かび上がらせていた。その中で灯火が一つ、ゆらゆらと鬼火のように揺れながら校内を逍遥しているのが見えた。夜間警備員だった。
初老の警備員は懐中電灯を手にゆったりと歩を進めていた。教室の内部まで丁寧に確認しながら、最上階から三階、三階から二階へと作業を行っていた。そうしてたっぷり二時間ほどかけて一階に辿りついた時には午前零時を回っていた。
最後に理科標本室の前に差しかかった時、ふと人の話し声が聞こえたような気がした。警備員はさっと身構えるように肩口を丸めて耳を欹てた。
扉には小さな曇り硝子が填めこまれていた。そこへ向かいの病院の灯りが射しこんで、人の影が小さく映っていた。影は右へ寄ったり左へ戻ったり、腕を上げたり下げたりした。そして何かを話す男の声が時々すぐ目の前での会話のように聞こえた。
警備員は身体から力の抜けるのを感じた。何のことはない木霊だったのだ。思わず口元に笑みが浮かぶ。だが次の瞬間扉の鍵の蝶番が根元から浮いているのに気がついた。彼は凝然と扉を見つめた。そして思い切ったようにベルトの鍵束に手を伸ばした。