其の壱

[一]

「もう少し歩きましょうか?」

「ええ、そうですね、そうしましょう」

そう応えたものの、それは多分にこの老教諭のためだった。

この人は昔の教え子とこうしてみたかったのに相違ない。そうすることで自身が老い、退職の歳を迎えたのだと納得出来るのだろう。渋谷医師はまだ青年といっても通る若さだったが、この教諭の気持ちが解るような気がした。

階段の一段一段はひどく低かった。それがまさにこの建物が子供たちのために造られたのだということを示していた。老教諭は四階まで上がると、一つ一つの教室を丁寧に眺めていく。そうして四階から三階、三階から二階へと同じことを飽きずに繰り返した。

ある教室ではわざわざ中へ入って教壇に立ったりした。それで彼も席に着いてみたのだが、机や椅子が小さくて吃驚した。

教諭の彷徨は図書室から音楽室、工作室や給食室にも及んだ。昔からこの先生はそうだった。奇妙なまでに生真面目な人だった。この人は何十年もずっとそうして生徒に接してきたに相違ない。

老教諭は飄々と先へ進んだ。そして粗方見終わった頃不意に足を止めて振り返った。

「どうです、ちょっと職員室へ寄っていきませんか? お茶でも差し上げましょう。静岡から良いのを取り寄せたんですよ」

「そうですね、ご馳走になりますか」

二人は顔を見合わせて笑った。まるで湯気の立つお茶の連想が急に二人の距離を近づけたという様子だった。それほど校舎の中は冷え冷えとしていた。

「そうだ、こちらの通路を行きますか。普段は余り人が通らないんですけどね、何しろこっちの方が近道だ」

まるで独り言のようにそう言うと、老教諭は倉庫の入り口みたいな通路へ向かった。

「おや、ここは‥‥」

思わず呟くと、渋谷医師は急に遠くを見るような顔になった。

その昔突然この通路の使用が禁止になったことがある。初めは何だろうと皆で首を傾げていたが、幽霊が出るという流言が出て理由が知れた。結局ことの真相は不明だったが、同級生の女の子が見たと言って、長い間休学したのを覚えている。その子が熱を出して休むようになって間もなく、通路は板塀で塞がれてしまったのだ。

今その通路は自由に出入り出来るようになっていた。もう幽霊が出るという流言もなくなったのだろうか。

「先生、覚えてらっしゃいますか? ここは私の在校時に通行禁止になったんですよ」

「おや、渋谷さんの頃でしたか。昔からどこの学校でもそうしたことがある、幽霊が出ると言って大騒ぎした話でしょう」 

「ええ、そうです」

「実はその時、警備員にも見たという者が出ましてねえ、それで校長と教頭、それに教育委員会の人まで来てもらいましてねえ」

教諭は遠い記憶をまさぐるように目を細めた。

「何人かで当直したはずですよ、そして翌朝の職員会議で塞ぐことになった。校長は最後まで何も見なかったと言い張ってましたが」

渋谷医師は固唾を飲んで教諭の顔を見つめた。

「先生も、その、幽霊を見たんですか?」