【前回の記事を読む】出会いのきっかけは文通。独身寮仲間で女性に縁がなかった私が一番早く結婚!

誰でも知る大企業へ(昭和四十三年~平成十年)

独身寮へ

この寮は他の寮と統合のため、一年後に引越しをした。ダンボールなどが配布され、みんな自分の荷をまとめた。荷造り不要な人は私も含めて何人かいた。当日の朝は引越しの車が来るまで寝ていて、布団をくるっと丸めて肩に担いで「どの車だー」と、いつでも夜逃げができそうな態勢の人が、三人ほどいたものだ。

地理が殆ど分からないから、休みは何となく部屋でゴロゴロ。一年ぐらい経った頃に、川崎市内にあるストリップ劇場をのぞいてみた。

会社と寮の道のり以外の、川崎市の街を全く知らなかったのだ。

大手電気メーカーで臨時工

作業場を見て、汗かきで熱さが苦手な私が、熱処理(水素焼き)の仕事に戸惑っていた。

臨時工として三交替勤務要員の補充、人がやるのだから、やれないことはないと思いつつも不安であった。

昼休みは組長と一緒に食堂へ行き、五日分の食券を頂き大助かり。ありがたかった。

臨時工(今は準社員)は従業員証、タイムカード、名札などすべてが目立つオレンジ色(正社員は緑色)だった。

入社して一ヶ月、十一月末になるとみんながコートを着て通勤するが、お金が無くて買えない。コートを着ないで電車に乗っていたのは私だけだったと思う。みじめそのものだ。当時まだあった生協に、裏地の無い安い値段のコートが一着展示されていた。有り金ギリギリで買ったときの嬉しさは格別。これでみんなと同じ格好で通える。胸張って通える。

あるとき着替えロッカーで「あれはレインコートだ」と誰かが言っているのを耳にした。

どうりで少し光っていると思っていたが……、こうなったら恥も外聞もないと開き直った。身なりでお金をもらうのではない、仕事でお金をもらうのだ。その後は意地になって四年間も着用した。これが貧乏人の底意地だ。