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極貧の足跡をたどる(昭和十八年~四十二年)

身の振り方の不安があったとき、大手電気メーカーが北海道で募集を出していた。履歴書を持って面接へ行き、半月後に臨時採用の通知を受けた。時計に縁を切る決心をした。

この三年間は、今ある人生の土台になっていると、強く感じている。二十四歳で海を渡ったのだ。笑われたっていい、恥かいたっていい。どうせ貧乏人だ、俺はやる。

合格へ無神論者の鈴が鳴る

父母を支えた義兄

私が二十四才の終わりに北海道を離れた後、一人息子に代わって義兄に両親の面倒を見てもらった。

「北海道のことは俺がやる。ただしできないときは頼む。死んだときの葬式はやれよ」

それから十四年後に父が亡くなり、やっと貯めたお金をそっくり出して、お寺で葬式を行った。義兄が

「爺に院号を付けてやるべ。若いんだから働けば何とかなる」

と言ったので、生前にもらったお寺での名前を院号に頂いた。仏具店では、

「仏壇は俺が買ってやるから、これで祀れ」

と、栃木県へ送ってくれた。口は荒いが人情の厚い人だった。

天井の無い土壁の家が大きく傾いて、義兄が古材を見つけて少しずつ運んで家を建ててくれたり、脳軟化症の父を病院に入れたりなど、親身に尽くしてもらった。村落内で地続きの隣の家で、畑を耕してもらったり、徘徊で世話になったり、周りから数知れない情けを頂いたお陰で今日の私がある。

父亡き後、母は施設に入ることになり、肩身の狭い思いはさせまいと、義兄はテレビを持たせたが使い方が分からなかったようだ。母は二十年間お世話になり、平坦な生活ばかりではなかったようであるが、姉が毎月二回ほど足を運び、親思いの姪は子供(曽孫)を連れて帰郷のたびに施設に顔を出していたので、母は慰めになったと思う。

母から態度で教えられた教訓は〝先ずは耐えること〟である。父には服従し、人に何と言われても絶対に言い返さない。痛くて顔をしかめていても、痛いとは言わないで我慢する「忍の一字」であった。周りの人がそれを知ったとき、みんなに同情されたと姉が話していた。

母から息子のように慕われていた義兄が、母より二年早く亡くなった。そのことを伝えたとき、母は何も言わず涙を流したという。姉夫婦の大きな力添えがあって、私は遠く離れて働くことができた。〝ありがとう〟の一言に尽きるのである。