極貧の足跡をたどる(昭和十八年~四十二年)
掘っ建て小屋に住む
昔のことを話すとき、貧乏という言葉が自然と出てくる。貧乏の生き様を語るときは、貧乏連鎖で父親の生い立ちにも触れることになるのである。私は昭和十八年一月戦中生まれの戦後育ち、父親は村一番の貧乏暮らしであった。多くの人が「その頃はみんな貧乏だったよ」と言うが、並み外れた筋金入りの極貧だった。
その親から生まれた私は先天性弱体で親ゆずりの貧乏に浸っていた。祖父は徳島県板野郡から転住した開拓農民で、子供が多く食べることが精いっぱいの貧農だった。長男として生まれた父は虚弱で夜泣きが続いたため、祖父母にとっては育て辛かった。
下に子供が多いため、一人暮らしの曽祖母が孫なる父を引き取った。曽祖母はお寺の留守番役であったため、父は自然と仏道に感化され、住職不在の間に頼まれてお経を上げるなど代理を務めるようになっていた。
祖母から溺愛され、その影響も大きかったようで十五歳で親の元へ帰ったが、折合いが悪かったようだ。父は、結婚し私の姉が生まれると、大家族の親元を離れて、山手の方の通い土地で農作業を始めた。田畑合わせて八反の面積に肥料も入れず、すべて手耕しで何とか食べるだけの零細農だった。
その傍ら、僧の資格は無いがお寺で育ち、お経を上げることができたため、地域の人から稀に頼まれて、命日などの勤めに応じていた。そのときの志が生活の支えであった。廃寺となった後の処理や管理を任され、無縁仏の供養に当たっていた。
そんな父のもとで育った私は四男である。上から三人と妹は四歳までに、寒さのためか肺炎で亡くなっている。生き延びたのは十歳ほど離れた姉と私だけ。母は私を大事にしたと聞いている。
私は三歳になるまで歩かなかった。虚弱児であったようだが両親も無頓着で、ただ寝かせていたようだ。普通の家なら問題視されていたと思う。小学校へ行く直前は、カスリの着物を着ていた記憶がうっすら、後は覚えがない。母体の栄養不足の影響かも……。
私が一歳半のとき、父が留守中に出火して家が全焼し丸裸になった。小学三年生だった姉が、火の中から私を抱えて救出してくれた。姉は命の恩人である。