【前回の記事を読む】北海道で掘っ立て小屋暮らし…「並み外れた筋金入りの極貧だった」過去

極貧の足跡をたどる(昭和十八年~四十二年)

みじめな小学生

昭和二十五年、小学校の入学式は母と一緒に、初めて大勢の中へ行った。私にとって初めての写真は、入学式の集合写真(十六名)だった。

無口で感情を表に出さない子供であったと思う。二人机の隣の子とは一度も話したことがなかった。ジャンケンも遊び方も知らず、休み時間は、運動場の隅にボーッと立っていた。女の先生がきて、みんなと仲よく遊びなさいと言われた。学習の合図は小使い(用務員)さんが鳴らす鐘、ノート表面はザラザラの灰色、歌は足踏み式のオルガン、遊戯は手回し蓄音機だった。自分の名は、姉から教わって書けていたと思う。

二年生のとき、女の先生の“いじめ”に遭った。赤インクと筆で額に×印を付けられて、廊下に数回立たされた。イヤだから立たないでいると、鼻をつまんで立たされ泣いたことを覚えている。

宿題をやってこないからと言っていたが、宿題って何のことか分からなかった。教えてもくれなかったし、分からないことを聞くほど成長していなかったと思う。いま思っても腹立たしく悔しい。子供の心や成長を察することができない先生は失格ではないのか。人物考査が欠けている制度の問題なのか。このことから教育に関心を持つようになったと思う。公募で市の社会教育委員に三期携わった。文化財保護委員は五期目である。

三年生になると、家の貧しさで、自分のみじめさが分かってきた。勉強用具はカバン代わりの風呂敷に包み、水彩画は塗ると減るから淡白な絵を描くと、クレヨンで描いたのかと言われた。

運動会はこの頃になって運動会らしく、白色の装いとなった。運動タビは午前中で親指がペロリ、戦争の影響なのか、粗悪品であった。

その後、二つの学校が統合されて、通っていた学校が遠くなった。冬の吹雪のときは視界が遮られ、吹き溜まりで道が消えてしまう。山の方へ向かって道の見当を付けながら、腰上から胸まで雪に埋もれて雪の中を泳ぐように進もうとするが、手足が凍えて硬直し容易に進めない。涙が流れしゃくり上げながら家に向かう。

薄っすらと我が家が見えると、それまでの我慢が弾けて大声で泣いた。駆け付けた父に何度も背負われた。お湯に手を浸け、指の節ぶしの痛さに耐えた。遺影を見ると、父の背にお世話になったことが思い起こされる。通知表には遅刻、欠席が多く、何回も書かれていた記憶がある。