【前回の記事を読む】「雪の中を泳ぐように…」冬の厳しい北海道、号泣しながら下校した小学生時代

極貧の足跡をたどる(昭和十八年~四十二年)

哀れな実姉

姉は、私が小学校に上がる前から家にはいなかった。祖父母や叔父がいる本家から学校へ行っていたが、欠席が多く同じ学年を繰り返し、通学しないで終わったようだ。

「いくら貧しいとはいっても、あんたは親の元で育っただけ幸せなんだ」

と、大きくなって叔母に言われた。

姉の話では、六つか七つの頃、稀に母親が本家に来たとき一緒に帰りたいと泣いたそうだ。食べ物が無くても母親のそばが一番なのだ。でも、連れて帰らなかった。夜は自分の布団も無ければ、寝る場所も決まっていない。みんなが寝静まったころに祖母の横で寝たり、叔父の横へこそっと入ったり。寝る頃に泣いていたら

「おじじのとこで寝れ寝れ」

と、祖父と寝たこともあったという。大人の顔色を見ながら、大きくなったようだ。

小学二、三年生頃に空腹に耐えられず物乞いをしたという人に、親から離された姉の話をすると

「――酷いっ」

と言っていた。自分の布団も無い六才か七才の子が今夜はどこで寝られるかと考えるなど、子供が心配することではないと哀れんでいた。稀に親の所へ帰ってきたが、私は一人っ子で育ったようなもの。姉と一緒に暮らした感じはないといってよい。親せき付き合いもなかったので、姉の下に私がいることを忘れがちであった。

村落内の農作業で得たお金で、小学校を出た頃、姉が親に代わって衣服を買ってくれたのを覚えている。私は時おり、金銭的に親の応援はしていたが、両親に対して直接的に何かと気遣ってきたのは、姉であった。下に弟がいてくれてよかったと思ってもらえるような弟になろうと思い、八年ほど年金の協力をしたこともあった。

姉は六十歳から菊作りを始め、花友会の中で女性は一人だけ、毎年の菊花展で各部門に入賞し、トロフィーを二十本ほど並べたのでビックリした。公共施設の入口に展示されるなど、地域の文化向上に寄与していたが、八十四歳で他界し、私も天涯孤独になった。

姉の子供(姪)は四歳から養父に育てられ、中学卒業と同時に、看護師見習いで病院勤めの傍ら夜間高校に通いながら、実務経験五年で准看護師になり、その後も努力を続け正看護師資格を取得。叔父の私が誉めたい努力家である。生涯を医療一筋に尽くし、今も現役で頑張っている。

母親の年金は、二十年間お世話になった施設から、亡くなった後に通帳と印鑑を受け取り、かなりのまとまった金額が残っていた。姉の要求通りに分けて、問題なく処理をした。

母より二十年前に亡くなった父は、先行きを案じて、生活保護費からタンス預金をしていた六十万円のお金が見つかったと義兄から聞き、母の年金をプラスして墓を購入した。仏壇仏具で二十万弱の金額を義兄が出してくれた余裕に驚きつつ、ありがたかった。

姉とは姉妹のようにしていた従姉宅へ遊びに行ったときの思い出話によると、六十万円は頭を取った半端なお金だという。石けん箱に詰めてあった意外な金額に、ビックリしたと言っていた。

「弟はお金を残しているからいいんだ」

と言っていたという。姉の葬式代になったと思うが、貧しい環境の姉弟であっても、お金に関しては欲が絡み無口になると知り、情けなく思った。お世話になった親のお金だから、私はそれなりの度量は持っているつもりだ。しかし姉は、何も言わずにあの世へ去った。