夢も持てず二十歳
中学校に入ったとき、教科書は学校から、私だけ無償で支給された。二年生の通知表は評価一から五まであった。五は国語で一は体育。ヒザ関節が痛いので、体育の時間はみんなの運動をただ見ていたのである。
生まれつき足は弱いと思う。長い道を歩くと、今でも足が重苦しくなる。
三年生の男子は木工があったが、その用具が買えず、級友が使わない合間に借りて椅子を作った。その級友には今でもお世話になっている。ありがたいことだ。
修学旅行も当然なように行っていない。中学校を卒業したが夢も希望も持たず、何をするでもなく親の元にいた。高校へ行きたかったが、親を手伝いながら悪い仲間と遊んでいた。叔父の家で豚飼いをしていたら、本家の義叔母に
「いい若いもんが、こんな所で豚飼いをしていてどうなるっ」
と強く言われた。もっともなことだ。成り行き任せで何も考えていないときであり、自立心に欠けていたと思う。炭坑の離職対策で職業訓練所の自動車整備の分室ができて、何となく応募した。三人に一人の合格の嬉しさで入所したが、つなぎの服を着て常に油まみれで、大型機械に興味がなく、途中で辞めた。
気づくと、周りに遊んでいるような若者はいなくなっていた。自分も手に職をつけようと思い始め、足が弱いので時計修理の仕事を考えていたとき、運よく札幌の時計屋の知り合いがいるという高齢のおばさんを知ることになり、札幌まで連れていってもらいそこへ住み込むことになった。夜具一式など面倒を見てもらい、助けてもらったのである。
十九歳の終わりになって、漸くランプ生活の田舎から離れることになった。村中の全部の家にテレビがある頃になっても、我が家には電灯も点らなかったのだ。家から百メートルの隣まで、電気はきていたけれど……。
片恋の線路は消えた郷の町