学校での弁当は、ときどき四角の弁当箱の中央に梅干が一個載った日の丸弁当であった。ご飯はあったが“おかず”が無い。「平瀬、今日も豆だ」煮豆が続いた。梅のような小さな木の実は、何でも塩漬けになった。まさに“貧しさと寒さに耐えて生き延びた”、この一語に尽きるのである。

一人だけ、ご飯の代わりに潰したジャガイモが弁当箱に詰まっているのを目にした。その子はすぐ炭坑へ転校していった。他校から聞いた話であるが、食事中は教室を出て外にあるブランコに乗っていた子がいたという。どんな大人になったろうかと思う。

四年生頃の終業式の前日に、学生服を買いに母と隣町へ行ったが、みんなと同じようなものは買えず、呉服屋の番頭さんが蔵を探して見つけてきたのをやっと買えた。亜麻生地のザラザラした物資不足時代の服である。この時代は、長子だけは新しい学生服を着るが、二番目はそのお古、三番目はよれよれでくたびれており、新しい物を着たことがないと嘆いた。

国連児童基金(ユニセフ)からの栄養補給で、脱脂粉乳(粉ミルク)を食事どきに飲んでいた。当時はみんな、体に寄生する害虫のシラミが背中などをゴソゴソ這い回り、痒かったものだ。学校で駆除のため白い粉の“DDT散布”があって、背中やズボンの中、女子は頭髪にも散布した。後に家庭用も市販されていた。

五年生頃は、クラスでもよく話をする方になっていた。小学校での集合写真も写真代を出さないため、手元に二枚しかない。同級生が持っている写真で、当時の自分の顔をしげしげと見た次第である。

当時、我が家の正月は餅とミカンがあれば正月だった。暮れも迫ってミカンも買えないとき、父が仏事の勤めを頼まれ、お志を頂いたお陰でミカンを口にすることができたことを覚えている。無くて当たり前、あって幸せ。