臨時工六ヶ月で本採用になり、大手企業の正社員になった。北海道から来て、やっと身分がはっきりして一段落した。オレンジ色のものはグリーンに変わり、中卒で途中入社の二十五歳で最下位の社員三級(私だけだと思う)の給料は、年齢より四つか五つ下の者と同じ二万六千五百円であった。

入社して二年、提案個人努力賞を二回もらった。年間に上級提案五件以上で表彰されるのである。「後一件頑張れ。工場長から表彰されるから」と言われて、通勤の電車の中でも仕事上の技術的な改善策を考えていたことがあった。

百の世へ登る途中の足を揉む

世帯持ちになった

昭和四十四年、川崎市宮内に六畳一間を借りた。家内は東京の三鷹から荷を運んだ。お互いの持ち物を持ち寄っただけの家財である。一つだけ小さな冷蔵庫を買ったら、貯金がゼロになった。六十センチ×四十センチの折たたみテーブルで、三年間食事をした。

一年ほど暮らして会社の家族寮に入った。壁は砂壁で柱は黒光りで傾き、解体寸前が延び延びになっていた所だ。六畳一間六百円で、給水場とトイレは共用、アパート代の八千円節約のために……。一年ほど暮らして、借金して相模原市の建売に移った。独身寮で文通をしていた友が、家族寮から後を追うように、一年後に同じ地区に越してきた。私たちが栃木県へ行ってから離婚したと聞き、家内と二人で驚いたことだった。