【前回の記事を読む】有り金ギリギリで買ったコート…。誰かが「あれはレインコートだ」

誰でも知る大企業へ(昭和四十三年~平成十年)

世帯持ちになった

私の甥っ子が、北海道から季節労働者で働きに来て、仕事途中で帰ることになったが、お金が無いから貸してほしいと、会社まで来たのだ。いつも手ぶらの家内の甥っ子が物を買ってきた。そのとき貸したお金はそれっきり。

私たちは不幸があっても、電車賃が無くて北海道へ帰れないこともあった。困ってもお金の相談をできる人がいない。すべてが無い無いづくしであったから、困って立ち寄る所がある人は、幸せ者だと思う。

小さな家で貧乏であっても、頼ってくる人のためになっていると思えば、自分たちの存在を感じることができるものだ。一軒家に住むと、北海道から来て立ち寄った人も四組いた。

貧乏人が建売を買う

私は目標を立てて綿密に進めることが苦手で、長続きはしない。目標倒れは心の弱さに気落ちしてしまう。ある日突然思い立ったが吉日、出逢いが生き様を変えてゆく。それがロマンでもあるのだ。

極端に安い新聞広告の中古物件を目当てに不動産屋をのぞいた。大雨が降ったら水が溜まるとの話で、客寄せである。ここで会社名や給料を聞いて私に勧めたのが、相模原市上溝、住居表示で緑が丘である。

「ここは絶対に、将来大きく拓ける所。私を信じて下さい」と言われて素直に信じて、現地も見ないでその場で契約を交わした。昭和四十六年夏のことである。

家内には、六畳間を転々とするから大きな物は買うなと言ってきた人間が、突然今日は不動産屋へ行って建売を契約してきた。「ほれっ」。こんな調子で、物事に直面してよかれと思ったら、相談もせずにすぐ行動に移す方である。その場その場の場当たり方式である。

その後は大変。頭金が無い。保証人はいない。今思えば、二十七歳だからできたことだ。二日後に現地を見に行って驚いた。バス停から防風林を抜け私の背丈ほどのススキ一帯の中を進み、車二、三台通ったような、雨が降ったら長靴が必要なデコボコの悪路の三百メートルほど奥に、基礎工事だけの空間があった。

一区画二十五坪に私道含み実質十九・五坪の土地に、十一坪の家で三百七十万円、これがほんとうの猫の額である。体一つの自分に財産が欲しくて着手したが、大変なエネルギーを要した。

自己資金が無いため生活の内容が急変した。朝の乳酸菌飲料は止める。新聞も止める。お金のかかることはすべて止めて気を引き締めた。止めて残るとは限らないが心構えがそうさせた。

自衛隊で貯めた二十万円を戻してもらうなど、お金の捻出が苦しかった。まだもらっていない給料まで計算に入れた。勤める会社は勤続が浅く給料も安くダメだった。融資は無理。家は早過ぎたか。