不動産屋の紹介で家内と二人で面談をした某銀行は、年収が百万円に満たないため貸付け対象外。しかし勤務先が東芝であり、給料も上がってゆくだろうし、奥さんも頑張るということだから、特別にOKということになった。

金利の高い信販会社でなくてよかったが、この後が大きな峠だった。一か八かで臨んだのである。連帯保証人の一人は関東一円に居住していることとあるが、誰もいない。相談相手も友達もいない。自分には無理なことで、持ち家はやっぱりダメだったか。

ここで自衛隊当時の上司を思い出して、元いた隊へ問い合わせると、相保証で自衛隊を中途退職し、今は東京にいるとのことで、住所を教えてもらった。

訪ねたときは「よくここが分かったなー」と驚かれた。外での立ち話で、家を買う保証の話などして帰ってきた。家内と二人で再訪して入った部屋は、三ヶ月後に床が落下したという古さであった。これからは絶対に人の保証はしないようにと、奥さんに強く言われていたが、そこへ私が保証のお願いに行ったわけである。

「平瀬は昔、俺と同じ仕事をした仲間で……」と、他人の保証で中途退職し途方に暮れた傷心の奥さんに、説得してくれたのだ。奥さんにOKして頂いたお陰で、家を持つことができたのである。

丁度三ヶ月前から、元上司は大手会社の警備員になり、給与証明がギリギリ手にできたという運のよさが私にあった。大きな借金を背負って、小さな新築の我が家に入った。家内もよく協力してくれた。内地に渡って四年目のことだった。

もし二ヶ月も支払いが滞ったら、恥も外聞もなく家を売って整理しようと腹を決めていた。北海道から出てきたときのカバン一つの姿になって、原点に戻ればよいと元々思っていたが、幸い病気もせず北海道へ帰ることもなく無事に乗り切ることができた。

私は、常に最悪の状況を想定して複案を持つのは、貧乏人の習性だと思う。場当たり式とはいえ安全策も考えて進んではいたと思う。目標や計画を持たない生き方がよいとは思わないが、情熱とロマンに負けるのである。

何事も、貧しさゆえに飾りようもないから本音丸出しで体当たり。この若さはいつまでも失いたくないものだが……。人の情けを数々受けて、今の人生があると思っている。

住んでいた緑が丘は三年ぐらいの間に目を見張るような発展で、不動産屋の言う通りになった。目の前に小学校ができ、文房具屋や自転車屋までできた。地元の人が、借金してでも買っておけばよかったと悔いていた。工場移転に伴って会社の査定で売りに出し、七年間住んで栃木県に転住した。