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リセット
しばらくの静寂があった。タオルケットから顔を出すと、僕は天井を眺めながらたずねた。
「……欲求段階説って知っていますか?」
「……人間は初めにパンを求め、それが満たされると今度は服、その次には地位や名誉っていう具合に、だんだんと欲求がエスカレートしていくっていうあれだね?」
「……そう。その説でいうと、自分の場合、まずは〝痛みを取りたい〟っていうのがあって、たぶんその次くらいに〝髪が欲しい〟っていう欲がエントリーされているわけです」
「……えらく上位にエントリーされているんだな。そんなにフサフサになりたいの?」
「……なりたい」
「……それは……どうして?」
「……フサフサしていたら……まだ自分にも、未来があるような気がして」
「……学生時代みたいに?」
「……ええ。でもハゲてくるとそういうのがなくなってしまうような気がして」
「……未来がかい?」
「……はい。さっき洗面所で、久々に生えぎわをチェックしちゃいました」
「……そんなものかね。でも、それは幻想だよ。……髪が生えたって、気持ちは変わらない」
「……そうなのかもしれないけれど」
僕は、歯噛みして言った。
「……鏡を見るたびに……お人好しな自分がいやになるんです」
「……どうして?」
「……企業の言いなりになって、まじめに働いて、ボロボロになって……頭もハゲて。正直者はいつも損をする。薄くなった頭を見ていると、そんな自分がいやでいやで」
闇の中、そう言って口をつぐんだ。心底自分が情けなかった。
僕は、前の職場を辞めた経緯を亀ヶ谷さんに話した。亀ヶ谷さんは黙ってそれを聞いた。
「……それで育毛は、どんなことをしたの?」
「……朝晩育毛剤をふりかけてマッサージ。使っているのはヘアハゲーンっていうやつなんだけれど、かえって脱毛があったので、塗ったり塗らなかったり」
「……ヘアハゲーンって、ミノキシジル配合の? 日本製だよね」
「……そうです」
「……わたしも聞いた話なんだけどさ。日本の育毛剤は、ミノキの濃度が一パーセントなんだってね……海外のやつだと、五から一五パーセントだったりするらしい」
「……そんなに違うんですか……知らなかった」
「……個人輸入で買えば、いいのが手に入るみたいだよ。でもあれは、使い続けなければいけないっていうしなぁ……生えた毛は、ミノキによってのみ維持できるそうだよ」
思わず、ため息が出た。