【前回の記事を読む】冥王星の名付け親・野尻抱影、文豪・志賀直哉、そして大学教授・宮下啓三の交わり模様って…
第一章──出会いのふしぎ
ふたたび志賀と抱影
まず志賀は生涯に二十回以上の転居を経験しているが、一九一四年の五月から九月までは松江に住んでいて、のちに「濠端の住まひ」という文章を書いている。
もっとおもしろいのは、抱影が山梨県甲府市で中学校の英語教師を務めていたころ、あるいたずら事件を起こしていた。その話を志賀に伝えたところ、志賀は一九五四年にそれを「いたづら―野尻抱影君に―」という短編小説にして発表した。それはまた映画にもなっているのだが、志賀は
「野尻君の話では場所は甲府であったが、甲府の町は昔、武者小路と旅をして、夜ただ通りぬけただけで、その後戦争で焼かれ、今はその面影もないだろうと思い、甲府とせずに想像で書いた。暫くいた事のある旧城下町の松江を頭に置いて書いた」(「続々創作余談」『志賀直哉随筆集』岩波文庫)
と記している。
この文章を見つけて教えてくださったのは、宮下先生である。先生から名刺をいただいて五日後の、十月七日付けの手紙にコピーを添えて送っていただいた。先生自身「びっくりしました」と書いている。びっくりはまだ続く。志賀が松江で暮らしたのは、小泉八雲(ラフカディオ・ハーンまたはヘルン以下、八雲)の著作を読んでいた縁があったからだと聞いたことがある。
八雲は「耳なし芳一」や「雪女」などの怪談で知られた、ギリシャ生まれアイルランド育ちの文筆家で、一八九〇年四月四日に横浜に到着し、同年八月三十日には島根県尋常中学校・同師範学校の英語教師として松江に赴任している。
志賀は、
文章を書く上に一番参考になったのはハーンではないかとも思ふ。あの一種単純な書き方など、学ぶところがあったと思ふ
「稲村雑談」
といっている。
その八雲は松江に到着して翌九十一年一月には、松江の士族の娘セツと結婚している。しかし同年十一月には熊本へ転居したので、松江滞在は一年と三か月ほどである。さらに抱影と八雲の関係を見ていくと、こちらにも関わりがあったことがわかる。
抱影は一九〇二年、早稲田大学に英文科が開設されたその年に入学し英語を学ぶが、すでに八雲が書いた文章を翻訳していたことが窺える。そして一九〇四年には、八雲の講義を直接聞いている。先生からいただいた抱影のハガキのなかに、こんな一文があった。
新緑の雨の時の暗い教室といふと、小生の学生時代、ワセダのとっぱづれの木造教室―墓地の見える―で、ヘルン先生の低い、女のやうな美しい声のベーオウルフ時代の講義を聞いた事を不図思ひ出しました。
ところがこの年の九月十九日に八雲は心臓発作のため倒れ、二十六日には五十四歳で帰らぬ人となっている。葬儀に参列した抱影にとっては、あまりにも短い八雲との関わりだった。
話はそれるが、私自身も八雲との関わりがないわけではない。私が通った高校の同窓生名簿のはじめには、「旧職員名簿」の欄があり、そこにはこう記されている。
ラフカディオヘルン 明23~明24 死亡